鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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同89年4月には,シンガポール・ツーリズム・ボードの主催するシンガポール・イProcess with Audience Participation, More than 4,の3つのプロジェクトが,89年1月には,「第1回オープンスタジオショー」がカンポンスペースで行われる。ターの4人に,チュ・ミ・ティ,ゴ・ベン・クワァン,トーマス・ヨーに加えてロンドンに活動の拠点を置いていたタン・ダウが参加した。このイベントはオフィシャルな参加者だけにとどまらない開かれた催しであったため,これを出会いの場として,シンガポールの若い美術家たちとダウが知り合うこととなり,その後の大きなうねりのきっかけとなった。レッジ・オブ・アーツの両美術大学の教壇に立つ。ダウは,自宅兼スタジオをシンガポール北部の農村,ロロング・ガンバスに定め,夫人のハゼル・マッキントシュと弟のタン・ダホンと共に生活を始める。マレー語に集落を意味する「カンポン」という言葉がある。60年代までは,大半のシンガポール人が,島内各地のカンポンで平屋の木造家屋に数世帯いっしょに住んでいた。ダウの住居は,まさにこのカンポンを思い起こさせるものであった。ントのフリンジ・イベントとしてArtCamp/ Art Commandos, Conceptual Art 学生を含むシンガポールの若い美術家たちによって実行された。フェスティバル終了後,ダウは彼らをカンポン・スペースに集めた。タン・マン・キ,ビンセント・レオ,ウォン・シー・ヤオ,アマンダ・ヘングがそこに合流し制作を始める。このとき,アーティスツ・ヴィレッジという名称が初めて使用された。この催しは自然発生的なものであったとダウは振り返る。鶏やガチョウを飼育するための建物をみんなでスタジオスペースに作り変える。膨張していくスペースにどんどんと若い美術家が集まってくる。住み着いて制作する者もいれば,土・日だけ通ってくる者もいる。人の流れは美術家にとどまらなかった。自家用車を持たない若者達にとって,バスが通っている道路からさらに30分ほど歩く以外に方法のない辺薗訳な場所に,週末ともなると美術家だけでなくマスコミをも引き込み,多くの人が集まるようになった。おう盛な制作意欲による作品の増加と,観衆の動きがオープンショーの開催へと進んでいった。さらにアーティスツ・ヴィレッジの活動は活発化する。翌88年にダウがロンドンより帰国,非常勤講師として南洋芸術学院とラサール・カ88年6月にはシンガポール・フェスティバル・オブ・アーツが開催される。同イベ-582-

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