鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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ンターナショナル・ショッピング・フェスティバルの「アート・マート」というイベントにアーティストヴィレッジが招かれる。5月には,「第2回オープンスタジオショー」がカンポンスペースで開催され,8月には「ザ・ハプニング」が南洋工科大学で,9月には「ザ・ハプニングII」がシンガポール国立大学で開催される。かけての24時間パフォーマンス,「タイム・ショー」へとその活動は展開されていく。そして交流の場であったカンポンスペースの政府への返還を迫られる。もともとそのスペースは農業従事者に提供されるべきもので,アーティスツ・ヴィレッジの活動自体が違法なのであり,さらにそれ以前に,芸術団体といえども結社の自由が認められていないシンガポールでは,当局に申請し公式な団体として認めてもらう手続きを踏まなければならない。彼らは慌ててそれらの手続きを行うが間に合いはしなかった。登録が認められたのは2年後の92年2月であった。アーティスツ・ヴィレッジに住み着いた美術家達は移動を余儀なくされる。ダウと何人かの美術家達は,ナヴェルベースエリアヘ移動するが,そこではスタジオ活動や展覧会活動などをロロングガンバスのように続けることはもはや不可能であり,オープンスタジオショーなどで一般に公開されることはなかった。活動の拠点を失ったアーティスツ・ヴィレッジだが,その後も90年6月の「CAREショー」,12月の「ゲイトウェイ・トウ・マレーシア」く。新しい活動の拠点を求めて,92年には,ホン・ビー・ウエアハウスを会場に「ザ・スペース」展を開催する。政府の開発事業の狭間で長期に渡り空き家となっていた商業ビルを,メンバーで整理し,展示空間として復活させた。このイベントにはと微笑むダウの表情から,このイベントの雰囲気を想像することができる。しかしこの場所も同展覧会一度きりの利用にとどまる。グループのメンバーは継続して使用できるよう要望したが,政府の指導によりビルはコンドミニアムヘと改築,再利用されていく。-「シンガポーリアン」アーティストーこのような歴史的な活動に参加したアーティスト達は,何を学び,何を考えたの89年12月には「ドローイング・ショー」に続き,12月31日からよく90年1月1日にしかし,この活発な動きも90年3月に転機を迎えることとなる。彼らの制作•発表展91年6月にはナショナル・ミュージアムでの「彫刻セミナー」と活動を続けてい60人を越えるアーティストが参加した。「この期間中に数組のカップルが誕生した。」-583-

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