鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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か。またダウとの出会いは彼らの表現やその態度にどのような影響を与えたのか。ダウは作家としてのカリスマ的な影響力と同時に,堅実なスキルを持つよき教師としての側面も兼ね備えていた。1943年に現在のシンガポールに生まれたダウは,シンガポール国立青年指導研究所により青年活動の学位を取得した後,美術を学ぶため英国に渡るが,ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで彼が取得した修士号がセミナーであったことは注目に値する。これらの方法で得られたスキルをダウはアーティスツ・ヴィレッジヘ持ち込んだ。お互いの作品を批評しあいながら自身の仕事の方向を見つめ直す。評論活動の弱いシンガポールではこれは大きな意味を持つことであったと考えられる。長い英国滞在の経験は,ダウにシンガポールに対して一定の距離を置かせ,彼に他者の目を持ち得ることを可能にした。80年代の終わりに帰国した彼は,それまでのシンガポールには見られなかったメッセージ性の強い作品をインスタレーション,パフォーマンスといった新しい手法により発表する。保守的な父権家長制度を批判し,シンガポールではタブーであるルーツ文化の問題を厳しく見つめ直す。中国の伝統文化と向き合うことから始まった彼の関心は,その後,第2次大戦後の食糧難時代の人々の命を救った作物とその記憶を扱った「タピオカ・プロジェクト」,ゴムのプランテーション農園の歴史を検証する「ラバー・プロジェクト」と,シンガポールを含むマレー半島の歴史とより深く関わっていく。社会と真剣に向き合うダウのこうした態度は,アーティスツ・ヴィレッジの活動を通してコウ・ニャンホウ,リー・ウェン,アマンダ・ヘングといった次の世代へと受け継がれていく。彼らはまた,シンガポーリアンをつくりだすための政策のもとで育ってきた世代でもある。シンガポール政府は政治色を見せぬようキャンペーンという方法でその政策を展開するのを常套手段とするが,有名な「Twois Enough」という産児制限のキャンペーンが多くの人々にパイプカットを強いたように,ナショナリズムは,なによりひとりひとりに日常生活のレベルで深い影を落とした。アーティスツ・ヴィレッジのメンバーとして,その活動を丹念に記録してきたコウ・ニャンホウは美術家としてよりドキュメンターとしてより大きな役割を果たしている。政策により形が変わっていく土地の記憶を写真で記録していく彼の作品群にも象徴されるように,政府の強力な情報統制のなか,抜け落ちた,あるいは意図的に隠された情報を自分の足で拾い集めていく。また,コウがしばしば見せる執拗な言語へ-584-

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