⑲ 帆足杏雨の研究—画風変遷の分析—研究者:大分市美術館建設準備室学芸員野田菜生子豊後国臼杵領戸次市組の大庄屋であった帆足家は,江戸時代後期の豪商・豪農といわれた地方富裕階級として,豊後地方の文化の担い手となってきた一族であり,幕末文人画壇を代表する田能村竹田の有力なパトロンでもあった。当時から多くの古書画を蔵し,竹田が度々滞留した帆足家の邸「富春館」には,『暗香疎影図』(天保2年)を含む田能村竹田の作品約50点の他,豊後南画と呼ばれる豊後地方の文人画をはじめ,狩野派,円山四条派などの江戸後期美術や中国明清書画を含む,件数約300点にのぼるコレクションを今日に伝えてきている(注1)。この帆足家に文化7年(1810),当主統度の四男として生まれ,幼少より竹田とその画に接し,竹田からその画オを高橋草坪とともに愛されたのが,文人画家帆足杏雨(文化7年〜明治17年1810■1884)である。帆足杏雨は,竹田の活躍した文人画隆盛期から明治期の衰退期に至るまでの約半世紀,充実した作画を高いレベルで継続しており,それは同時代に活躍した浦上春琴や岡田半江,或いは木下逸雲,貰名海屋などにも勝るとも劣らぬものと思われる。にもかかわらず,日本の文人画史の中で,現在それにふさわしい評価が得られていないのは,大竹田は勿論,同じ高弟としても夭折した草坪の存在が大きいこと,杏雨自身が20代の一時期を除き中央画壇に出ず,豊後近隣を中心に活動し殆ど県内に作品が留まったことなどがあげられよう。本研究では杏雨の画作,著述,行動範囲や交友関係などからその全体像を総合的に調査し,日本文人画史上における相対的な再評価を目指すものである。昭和59年(1884)に大分県立芸術会館で開催された「帆足杏雨展」図録において宗像健一氏が,初めて杏雨について研究基礎を築かれているが,今回の調査報告では,宗像氏の御研究をふまえて,帆足家本家(富春館)と,天保7年(1836)に分家独立した杏雨の子孫にあたる帆足家分宅に伝来した作品資料を中心に新たに判った事項を加えて,総合的にその画風変遷について考察しまとめてみたい。現在までに調査し終えた帆足家本家と分宅に伝来した杏雨作品は,小品も加えて約100点あり,これらはほぼ杏雨の全画歴を網羅し,幅広い作風のものを含んでいる。これに美術館や個人所蔵の作品と,主な売立て目録などの図版で確認される作品を加-588-
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