鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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第1期:初期の画作一竹田画法の摂取えると,およそ250点余りの作品リストが作成できた。更に帆足家分宅に伝来する杏雨の日記や詩稿,書状など併せて約60点の史資料,杏雨が制作した300点以上の粉本の存在も確認された。このように杏雨については,現在ほぼ良好な状態で充実した数の作品と諸資料が県内に遺されており,更に比較的作品数の少ない天保〜弘化年間の作品についても,今回の調査で画風変遷を辿れるに十分な作品数を確認できた。以下,宗像氏の論考をふまえて杏雨の画風変遷を大きく4つにわけて整理し再検討を加えていきたい。第1期は文政7年(1824)から天保6年(1835)までの10代から20代前半,杏雨が竹田に入門し,直接間接的に指導を受けながら基礎的画技を身につけた学習期である。山水画においては,黄公望の画法と王蒙の画面構成を取り入れ完成した竹田の画法を,花鳥画においては,浦上春琴或いは憚痔平や張秋穀の筆意の画法を基本に行われており,2度の京都遊学と長崎遊学が,それらの学習の画期となっている。文政11■12年(1829■30)の京遊以前,竹田荘やH田の咸宜園,或いは戸次の自宅における最初期の杏雨の画作は,売立目録の図版を含めてもわずか4点しか確認できず,画学習の実態は具体的に把握できなかったが,この初めての京遊以後,徐々に作品数は多くなり,学習の状況がある程度認められるようになる。上京した杏雨は浦上春琴や高橋草坪の周辺において,春琴画や中国画による学習を行っているが(注2)'山水画では,杏雨が王蒙筆意として考えた,濃墨の点苔を岩と岩の間に集中的に施すなどの特徴が見られる他は,特定の方向性を示さず,未分化な初歩的画技の修学段階にある。一方,花鳥画では張秋穀や禅舟平の筆意に倣った作品が,京遊以後第1期を継続して描かれるようになる。「花舟図」(天保2年)〔図1〕のように,上部が菱形の特徴をもつ太湖石を描き,没骨の花丼を様々な色を重ねて彩色した作品が多く認められるようになる。次の天保3年から4年(1832■33)の2度目の京遊は,師竹田の直接指導のもとで,特に山水画において竹田画法の習熟が行われている。この間「京瀞詩画帖」(天保3■4年)〔図2〕や「蜀桟道図」(天保3年)にみられる,柔らかい淡墨線を積み重ねて造形し,山襲にそって集約的な点苔を施す画法は,同時期の竹田の作品にみられるものと同様であり,松樹や竹林,葦蓼,家屋等のモチーフも近似した表現となっ-589-

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