ている。この竹田画への傾倒が一層推し進められたのが,日田,下関,長崎の竹田の友人や後援者を訪問した天保5年から6年(1834■35)の西遊であった。日田で描いた「秋汀吟歩図」や下関で描いた「山水図」(天保5年)〔図3〕に見られる明確な主山を置かず岩山や樹木や流水を巧みに散らして,ジグザグと蛇行する構図は,観者の視点を左右に揺るがせながら上部へと導いていく,竹田が用いた画面構成である。更に,岩肌や土披の代緒の地塗りに萌黄を重ねる彩色法,大きく波を挟みこんだ平らな台形型の岩山や,枝葉の少ない枝頭がしまった樹木の描法は,黄公望の筆意として用いられた竹田画から学習したと思われる特徴である。このように西遊の期間は,杏雨の竹田画理解が深化した時期だが,一方で第2期の画風への過渡的な作品も確認される。すなわち画面中央に塊量的な主山を明確に打ち出し,散らされていたモチーフを整理した安定的な構図の中に,圭角をもつ細い墨線で造形し,潤いのある透明な彩色を施す画風の作品である。日田で描かれた「寒霧籠山野図」(天保5年),下関で描かれた唐寅筆意の「浅峰山水図」(天保6年)〔図4〕に示されるこの新たな傾向は,訪問先の豪商H田森家や下関広江家,波多野香村,渡辺東里などの文人グループが所持していた中国画に,影響を受けて生み出されたと考えられる。更に「浅峰山水図」の前景に大きく配された豊かな枝葉をもつ樹林も第2期以後の杏雨の画の特徴となるし,衝雨をしのいで進む渡し舟は,以後複数の杏雨の画に引用される重要なモチーフである。以上のように,竹田の画法を自已のものとしながら,一方で全く新たな方向に向けられた画風傾向は,杏雨の解釈した中国画の画法を積極的に取り入れたものであり,画風変遷第2期は天保7年(1836)から弘化4年(1847)までの30代後半までのおよそ10年間である。この時期は,明清中国画学習を中心に竹田画風から脱却し,独自の画風確立に向けて懸命に努力が続けられた,技術と表現意欲の高揚期にあたる。変化が顕著になるのは天保8年(1837)であり,紙本の作品と絹本の作品それぞれで新たな画風傾向が認められる。まず紙本の山水画では,「雪渓吟鞭図」〔図5〕など一連の作品に,速度ある力強い第2期:画風の変貌と高揚ー中国画法の摂取第2期に入ってますます著しくなっていく。-590-
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