保11年)〔図13〕や「設色花鳥図」(天保12年)では,南禎画法や常州草虫画の画法を第2期は懸命な中国画学習によって,天保末期には杏雨の描写力や構成力は高いレ第3期:自己の画風確立と円熟第3期は嘉永年間から万延年間(1848■1860)の杏雨40歳代を中心とした時期であ実際に目にした,中国画や画譜類から重要と思われる画式を抜き写して整理しまとめた,画法書『聴秋閣模古画式』〔図12〕を制作した。約250種の図様が収められたこの「摸古画式」をみると,唐寅,王石谷,戴文進,藍瑛,或いは周東那や秦儀などといった有名無名の幅広い明清絵画を杏雨が学習してきたことがわかる。「宇門腟車馬人物橋梁」の頁で取り上げられたモチーフの多くは摸古画式制作以前と以後の杏雨作品に多くの引用が認められるのである(注6)。堅固な画面構成に,豊かではあるがやや暗く重い色彩を用い,堅く鋭い筆致で描く北画的な画風は弘化年間まで引き続くが,一方,天保12年頃から,「清渓賞月図」のように明る<透明な彩色を施し,全体的に穏やかさの加わった山水画作品か現れてくる。この彩色法は,花鳥画において顕著である。花鳥画も第2期に入って鉤勒的な墨線で造形し,様々な色彩を用いる写実的な画風に変化していたが,「花塘細鱗図」(天取り入れつつも,絹本の光沢感を活かした,均質な透明感をもつ明る<柔らかな彩色によって,優雅でしっとりとした雰囲気を醸しだしている。こうした杏雨独自の色彩感覚による彩色法は,天保末期から弘化,そして第3期の画風の中に定着していくのである。ベルに達し,独特の彩色法も編み出された。次の第3期ではそうした技術を使って,杏雨の個性が表出された作品が描かれる。る。この時期における画風は,どっしりとした主山を据え,前景に大きく樹林を配した安定した画面構成と,豊かに彩色を施す点は,第2期の画風を継承しているが,墨線や彩色等には,第2期の中国画学習が直接反映されたような重厚でやや堅い印象が無くなっている。「南山松柏図」(嘉永4年)〔図14〕のように,墨線は圭角の無い柔らかなものになり,細かく打たれた点苔が水分を多く含んで潤いのあるものに変じている。同時に山の形勢に尖った部分が無くなって丸く塊量的に膨らみ,樹幹にはうねりを生じてくる。「山陰雪齊図」(嘉永4年)〔図15〕のように,山の丸い輪郭に合わせて,細く長い跛で幾重にも山襲を描き表すのも,この期の特徴である。以上の画風-592-
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