鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
603/711

政4年には六曲一双「花鳥山水図屏風」の各々6枚の山水と花鳥画に典型として現わ19〕のように,前期の穂先を立てた直筆の運筆によっていた鉤勒的な墨線から,水を第4期:晩年の画風第4期は文久年間以降から明治年間の杏両の晩年(1861■1882)まで安定的に続く,変化は第2期の後半に見られるようになった濁りの無い透明な彩色と相侯って,画面に光や大気を感じさせる温和な自然景を映しだし,穏やかな情感に満ちた杏雨独自の画風として確立する。この第2期と第3期を画する,いわば「硬」から「軟」への画風変化を引き起こした直接の要因がどこにあるのかは判らない。嘉永2年から4年にかけては父と兄を相次いで亡くし,罹災を被るなどの身辺の度重なる不幸が,或いは杏雨の心理に作用しているとも考えられるが,いずれにせよ第2期の天保末から弘化にかけて取得した高いレベルの技術を用いて,杏雨自身の創造的な個性の表出が明確に顕れ出したものととらえたい。引き続く安政年間は,一層柔らか味を帯びる墨線などに嘉永年間に確立した画風傾向か定着する一方で,次期の第4期にみられる構図やモチーフのパターン化が始まる。すなわち構図では「月下舟涸図」(安政元年)〔図16〕に見られる片側に懸崖を描き下方の水辺を望む構図,「李青連詩意図」(安政元年)〔図17〕の握りこぶし状の主山を上半部中央に据える構図,或いは片側から張り出す構図などの数種類の決まった型か用いられるようになる。モチーフの大きさも作品間で変動しない。更に「淡彩山水図」(安政6年)〔図18〕にみられるように,杏雨が解した所の呉鎮の画法の影響と思われる点苔を大きく煩雑に打つようになること,樹木のうねりが激しくなること,謝時臣の影響と思われる,樹幹が水平方向に曲がった樹木を前景に配すことなども特色としてあげられる。花鳥画においても「広園深秋図」(安政元年)や「設色花鳥図」(安政元年頃)〔図多く含んだ太く柔らかな墨線へと変じ,筆数も減り,大きな点苔が目立つようになる。また,モチーフや構図もパターン化されてくる。以上のような第3期の構図やモチーフなどにみられるいくつかのパターン化は,安れており,杏雨の画風確立と完成を示すと共に,第4期以降の画風の方向を決定づけたものになっている。-593-

元のページ  ../index.html#603

このブックを見る