鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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50歳以降の画風である。第3期の安政年間に認められた画風傾向が更に顕著になり,一見雑な画法処理が目立つようになる。具体的には「水辺看雲図」(文久元年)〔図20〕や「碧梧秋風図」(文久元年)〔図21〕などにみられるように,墨線が一層太く濃くなり,勢いはあるがやや単調になること,点苔が水分を多く含んで大きく強く打ち付けられること,彩色が平板で目立たなくなること,同種の構図や模古画式等から引用したモチーフを繰返し描くやや安易な作画となっていることなどである。この傾向は「四時山水図」(明治2年)〔図22〕のように,60歳代以降晩年まで基本的に変わらない。更に,安政の頃から,第4期の作品には款記に「倣…」,「擬…」といった,何という中国人の筆意によるものかを度々明示するようになるか,その筆意の違いによって作品間に一見して判別できるような画風の差は殆ど認められない。以上のような点は,この期の画が,前期までと比較して相対的なレベルの低下を示しているようにも思われる。だが一方,この頃杏雨の一般的な名声は最も高まりを見せる。ウイーン万博に4点の出品を果たし,世間に広く求められ多くの作画を行い,第4期の作品は現在最も多く伝えられている。勢いのある濃墨線や強く打ち付けた点苔などを用いた画風が,尊王攘夷思想の広まった明治期の豊後地方の南画に「雄渾」な画風として一般的に流行したものであり,第4期の画風変化は,杏雨も少なからずその影響を受けた結果と考えられる。また文久年間以後,眼を患い,年々弱まっていった視力では,以前のように緻密な描写や彩色は困難になったとも推測される。以上のように,杏雨の画風変遷を4つに分けて整理してみたが,中でも重要と思われるのが,第2期から第3期にかけての激しい画風変転である。旺盛な制作意欲と技術が高まって,自身の志向に忠実に,真摯に画と対峙する姿勢は注目される。そして最も充実した内容の作品は天保10年頃から嘉永にかけての,師風と中国画の学習を経た後の,杏雨独自の情感あふれる理想化された自然景を映した作品である。ここに表された杏雨の描写力,抜群の色彩感覚,画面構成力は同時代の文人画のなかでも,更には幕末の日本画壇においても高く評価できるように思われる。今回の調査研究では杏雨の作品目録の作成と画風変遷の大まかな分析までを行った。今後は,新たな作品資料の調査を継続させながら,今回の調査で確認された日記や詩稿の分析,高橋草坪,平野五岳をはじめとする周辺文人との交友関係などから,帆足杏雨の総合的な分析と再評価を行っていきたい。-594-

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