いることがわかる。これについては【資料3】の筆順分析図を参照されたい。では寛永七年までの形態から寛永九年の形態へと変化する過程を,筆法,筆順などから紐解いてみよう。第一筆目の乙字形部分[a]は,若干の差こそあれ第1期から5期までを貫く基本形である。つづく二筆目については,花押の中程(乙字部分の中程)で上下に積み重ねるように螺旋状の二回転ないし,二本の横線[b]を作っていた寛永七年までの例が,九年の例では第二筆目で左斜め下方へ降ろした線から右横方向に螺旋を展開させ,いわばm字形に近い様相[C]をなしている。また最終筆については,元々花押上部から三分の二程度のところで,花押中心部より左右に大きく開いて収める筆画(横ー文字形[d]/乙字形を基本として三角形構成を作る時の大事なバランス部分)が下部まで下げられて,花押全体の土台となるように変貌している。さらに最終尾については,左斜め上方へ跳ね上げて花押の中心部にまで折り返して跳ねていたものが,寛永九年の例では右斜め上方へ払い上げるような筆法(一般に隷書体では「破傑」と呼ぶ筆法に似ている)に変化している。わずか2年でこれほどに大きな変貌を遂げたことになるのである。この点について,書の(技法上の)一般な論理からみてみれば,新たなものが創造されようとする過程では,それまでと比べて若干バランスが悪くなって,全体構成も落ち着かない形状をとる傾向がある。したがってこうした現象がこの時期に看取できることは,第3から4期が正に実験段階とでもいうべき新しい花押の試行期間であったものと考えられるのである。次に第5期の用例については,それぞれ図の形態が若干ずつ違うため,一見して筆順も異なって見えるが,【資料3】で確認できるように,実はどれも同じ筆順,構成で書かれている。この形態の初出は,現在のところ寛永十一年である。ここで寛永十年の用例が現在欠けている点は大きな問題ではあるが,寛永十一年以降の用例が大量に確認されている今,この期の形態が定着したのはひとまず寛永十一年以降としておくのが妥当であろう。以上【資料2• 3】によって,慶長から寛永十四年まで,およそ三十年間の花押用例を,順次具体的に検討してきた。ある規則性にしたがって,徐々に花押形態が変遷していることは確かである。まだ用例に不備な点こそあるが,今後欠落している用例か確認されれば,自然と確実な変遷過程が判明し,より明解な指標が築けるだろう。-51 -
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