では牛図の花押について,以下具体的に考察してゆこう。まず乙字形を書く形態,および乙字形を書いた後,旋回して二重に丸を書く形態は第2期のものに近い。しっかりと乙字形を書く例の下限は寛永五年であるが,現在確認できた寛永五年の例では,乙字形を書いた後は螺旋状に旋回する筆法をとっていない。そして牛図の花押では,第2期のものより大きな丸で,右斜め上へと開いた楕円形をとっており,続く螺旋状を作るべきところの筆線は小さくまとめられて,大きな丸の内側に取り込まれるような形状になっている。こうした構成は,むしろ第4期へのステップとも考えられる。加えて最終画の横ー文字状に引いた長い線の末尾は,寛永九年の例に近く右斜め上方へ払い上げる筆法を採っている。また形態の調子を整えるよう,最後にきまって点を打つが,この位置が楕円形の左斜め下方,ー文字形横画の上方[e]に見られる。こうした全体の構成からは,第4期のスタイルに近いと言える。以上のように,光廣が手がけた牛図の賛は寛永八年前後ごろ(およそ五年間,寛永六年から十年までの間か)を着賛時期と想定するのがここでは妥当と考えられ,すなわち牛図もこれよりさほど遡らない頃の制作ではないかと考えられる。そして先掲の指標によれば,牛図の賛にある花押は,形態移行期のものとなる。(二)東京国立博物館蔵「源氏物語関屋図屏風」金地六曲一隻の屏風に描かれた本図には,左上部余白に光廣が墨書している。ここでは署名はなく,花押のみを書いている。基本構造は第5期に属するもので,寛永十四年の「本阿弥切古今和歌集」に見える用例に近い(注3)。ただしこの例では,第一筆目に乙字形の名残が見られ,書き始めの横ー文字部分が独立していない。また最終画となる左右に大きく伸びた横画は,一度折れ曲がるような筆意を見せている。子細にはこのような二,三の点について注意しなければならないが,形態上からおよそ寛永十四年の例に従うものとして現状は取り扱うべきであろう。今一度,花押形態変遷の過程を眺めてみると,ー形態が定着し,筆法や筆致が習慣づいてくると,線は運筆の上で抑揚を持ち始める傾向がある。つまり寛永十四年前後に同様のいわば簡略化が進むと仮定すれば,寛永十四年あたり以降で,筆圧の強弱の差が大きくなり,軽快な筆致で花押が表現されるという推察が可能となる。したがって「源氏物語関屋図屏風」の着賛は,花押形態の変遷から考察して,寛永十四年(1637)から光廣没年にあたる同十五年(1638)頃に行われたとするのが妥当と考えられ,また本屏風絵の完成もこれからさほど遡らない頃であろう。-53 -
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