鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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2)。奈良そして平安時代の文献を探ってみても,屏風に日月のモチーフが使われた的な洗練と絵画の諸伝統の知識を反映している。この作者が,寺院あるいは宮廷に関係を持っていたことを示唆している。本作を著しく特徴づけている要素は,その日月の主題とやまと絵様式の風景の二つである。しかし,しばしば日本独自と言われることの多い本作において,この二つの要素はどちらも中国にそのプロトタイプをもっている。たとえば,隋と唐の時代のシルクロード圏では,日月の図像そして青緑山水図は共によく見受けられるものなのである。そして,日本においてその組み合わせは,七肌紀後半までには出現していたと言える。高松塚古墳壁画〔図2〕では,日と月の図が雲を表す平行線によって貰かれ,その平行線の間から三角形の緑の山々が見えている。この組み合わせはやはり敦燎にまで遡ることができる。たとえば,217窟の北壁東側の章堤希夫人の日想観部分がその例である〔図3〕(注1)。しかしながら,日月のモチーフがやまと絵の風景画に採用された例ということになると,金剛寺本以前にその実例を見出すことはできない(注という記録は見あたらず,平安時代の屏風歌にも,日月のモチーフを示唆したりそれに言及するものを見つけることはできない。万葉集には日月を詠んだものが数首あるが,和歌においても,日月両者を同時に詠んでいる作はごくまれである(注3)。十一世紀までの屏風の主題が和歌に密接に結びついていたことを考えると,平安時代,日月のモチーフがやまと絵において広範に採用されていたとは言いがたいだろう。あるいは,このモチーフのもつ聖性が,貴族たちの日常的な居住空間には不適当と思われたのかもしれない。もし,その当時,日月のモチィーフが描かれた屏風が存在したとすれば,それは,宮廷か寺院での使用のためだけに制作されたのではないだろうか。ではいったい,何が,やまと絵の伝統に日月のモチーフを採用させるきっかけになったのだろうか。十四世紀における宗教上のあるいは美学上の発展が何かのきっかけになったのかもしれない。たとえば,参詣曼陀羅や垂迩曼陀羅のように,日本の風景の上に日月を配するイメージが一つの源泉になっていることが考えられる。また,屏風一対という画面形式の出現や料紙装飾の復興がやまと絵の山水屏風に日月のモチーフを描きこむことを制作者に示唆したのかもしれない(注4)。さらに,蒔絵や扇装飾のように対形式の中で日月のモチーフを使用する工芸にもそのアイディアをたどる-635 -

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