鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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接的に影響を受けたと考えることは可能であろう。たとえば,現存はしないが,奈良時代ないし,平安時代に,古代中国のプロトタイプの一例となる天水市本のような作品の影響をうけた日月山水図屏風が存在した可能性があり,そうした作例から金剛寺本の作者が影響をうけたことは考えられる。また,もう一つの可能性として,日月山水図屏風の伝統が中国の中で発展し続け,明時代になって,直接に或いは朝鮮半島経由で中世日本に伝達されたことも考えられる。実際この時期,様々な主題が国境を超えて共有されており,日本の大陸への関心も活性化していたのだから。事実,中国に,日月山水図屏風の伝統が七世紀から十七世紀にいたるまで続いていたことを証する作品が存在する。現在クリーヴランド美術館所蔵の陳洪綬によって制作された掛軸「宣文君授経図」〔図5〕がそれで,この作品は,青緑山水に日月の図像を配した屏風を画中画として含んでいる(注7)。画家の自賛によれば,この作品は,画家自身の叔母の六十オの誕生日を祝って描かれたものであり,画中の屏風の日月のモチーフとテーブルの上に置かれた神聖な茸は,長寿の象徴なのだが,双方とも,道教の伝統に依るものである。陳は,明代の後期にあって,絵画の伝統に意識的であるが故に,非常に装飾的な様式に傾倒した古典再興の旗手であった。宮廷に召喚されて,過去の偉大な皇帝たちの肖像を模写するという任を与えられたという説もある。クリーヴランド本の日月のモチーフには,おそらく,そのような経験と古典に関する豊富な知識の関与があったのではないだろうか。とすると,彼が模写したと伝えられる皇帝たちの肖像には,やはり,背景として日月山水図屏風が置かれていただろうか。ともあれ,「宣文君授経図」に描かれた屏風は,日月の使用と青緑山水様式の選択において,天水市本を思わせる古色に溢れている。次のような細部を見れば,陳は,自覚的に唐の青緑山水の様式を引用しているとも言えるだろう。山水全体を覆う青緑の顔料の装飾的な使用,点在する叢,岩の上に図形的に描かれた木々,太い輪郭線で表された岩,あるいは記述的に描き出された個々の葉,二重の線によって縁取られた流れる雲。貴族の船遊びのモチーフも,これによく似たモチーフを含む天水市本のような原型に,遠い源泉をもっているのかもしれない。明代の中国と室町時代の日本との間に盛んな芸術上の交流があったことについては,多くの根拠がある。たとえば,十五世紀を通じて,金屏風は,日本から朝鮮半島あるいは中国への貢物の一つとして重要な品であった。「至大唐御進物別幅分」によ-637-

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