(1392-1910)後期作の日月五嶽図屏風である〔図8〕。これら朝鮮半島の屏風に使用れば,周防の大名,大内義隆は,狩野元信(1476-1559)に,明の皇帝への進物として金屏風を三点描かせたが,その内の一点には,桐と孔雀と鳳凰とともにH月が描かれていたという(注8)。当時の人々が明の皇帝にとって,日月がふさわしい画題であったことを考慮したことがうかがえる。日月の屏風が,明代の宮廷において重要な意味を持っていたことは,1507年に山西省新鋒県の峻益廟に描かれた道教壁画から推測できる〔図6〕。その西側の壁画には,陳園,常儒,そして常儒の子が描いた,官吏と道教の聖人が大馬皇帝を訪れる場面があり,皇帝は,后設(右)と伯益(左)にかしづかれている。皇帝は,堂々とした屏風の前に座しているが,その屏風は,黄河から昇る,雲に包まれた大きな日を見せていて,日月山水図を思い出させる。構図の中心に座る皇帝は,屏風の前景を覆っている白い波頭のうねりを抑え,王冠のすぐ上には,神々しい宝珠か姿を現している。また,このような日月の屏風の前に皇帝の姿が描かれている例を朝鮮半島にも見出すことができる。韓国国立中央博物館所蔵の1748年作「老政官参集記念画帖(仮訳)」〔図7〕の画中画がそれである(注9)。大馬の場合と同じように,皇帝は画面中央の屏風の前に座り,道教的な宇宙の中心に象徴的に配置されている。つまり,日と月の間,そして背景となっている五岳の中の最も高い岳の前に座っているのである。また,屏風の前景は,明の例と同じく,白い波頭のうねりによって覆われている。この朝鮮半島の画帖は,約百年前に描かれた陳洪授の「宣文君授経図」同様,誕生Hを祝福するために制作された。詳しく言えば,高級官吏達の,六十オと七十オを祝う者老と呼ばれる集まりを描いたものである。者老の習慣は,中国の唐時代に発するものであるが,高麗時代(918-1392年)に朝鮮半島にも伝わった。画帖に描かれたものに似た明屏風は,者老の伝統に欠くことのできない特色をなすものであれば日月屏風はおそらく朝鮮半島において14世紀頃には知られていた可能性がある。陳の作品とこの朝鮮の画帖はともに,赤い日,白い月,青緑山水,山から屏風の下辺に広がる海へと流れ込む水,前景の隅に描かれた岩に根づく壮麗な松,を含んでいる。朝鮮半島には,この画帖に描かれた日月五嶽図屏風に似た屏風の実物が約二十点存在するが,その代表的な例は,現在,韓国の昌徳宮仁政殿に保存されている李朝時代されている象徴体系は,やはり陰陽五行説にのっとり,日月が陰陽を,五嶽が五行を,松は長舟を,海に流れ込む水は,万物の創造につながる五行の運動を表している。-638 -
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