鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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「赤青」彩色法も五行説にしたがったものだろう。そして,この図像体系の一貫性と固定化された様式は,これら朝鮮半島における日月五嶽図屏風が,宮廷における長い模写の伝統に多くを負っていることを示している。李朝の宮廷において日月五嶽図屏風が使用されたという文献上の記録は,十七祉紀の半ばにその最初の例を見るにすぎないが,宮中に於てのみ厳格に何世代にもわたって模写されてきたことを示す上のような作例は,そうした儀式の中での使用が早くから確立されていたことを示唆している。事実,李朝の画家金浮(1486-1521)によって書かれた『]中庵集』には,H月の図像が山々や植物,動物とともに屏風に描かれていた例が見られる(注10)。この資料は,これまでの通念に反し,十五世紀後半から十六世紀前半すでに日月図屏風が朝鮮半島で制作されていたことを証している。この制作期は,先に触れた狩野元信の日月屏風のように,東アジアの国々の間で屏風が贈答品として流通していた正しくその時期に重なっているばかりか,『沖庵集』に言及されているこの屏風は,金剛寺本とほぼ同時代に制作されたと考えられるのである。一方,こうした大陸,朝鮮半島における日月図屏風の伝統に呼応するように,琉球にも,似たような例を見出すことができる。第二尚氏初代の国王である尚円王の御後絵(図9〕がそれで,王はここでもやはり日月図屏風の前に座し,十五世紀の琉球の宮廷においても,やはり日月図屏風が背景として使用されていたことを示している。不運なことに,この像は第二次大戦中,琉球の円覚寺とともに消失し,1921年に撮影された白黒の写真が残るにすぎないが,本来は壁画として描かれ,数度の改修を経ていたらしい(注11)。尚円王の子,尚真王が1494年,円覚寺を建立し更に東御照堂を建てたときに祀られた肖像であったと言う伝承に従うならば,この像の制作年代は,尚王の死後約二十年ということになる。ここに描かれた日月図屏風は,稜益廟の大馬の背景として描かれた屏風と,制作年代を約十年しか異にせず,いくつかの類似点もある。その点とは,屏風の前景の約三分の二を占める打ち寄せる白い波頭,その波の上限と前に座す皇帝の冠の上端との重なり,そしてその上の雲に囲まれて浮かぶ月や日である。両者の類似は,君主の背景にある儀式的な用途,図像体系,構図などに見られるが,しかし,作画の様式に関しては,両者の間に相違がある。琉球の屏風は,青海波と,それを乱すように強調して描かれた爪のような波頭を持ち,これらの装飾表現は,むしろ朝鮮半島の日月五嶽図屏風に近い趣を見せている。中でも,雲文による-639-

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