鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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琉球の雲の表現は,極端に装飾的である。これまで見てきた中国,朝鮮半島,そして琉球の画中に描かれた日月図屏風は,ぃずれも,巻き上げられた幕の背後に,儀式の装飾的な背景として置かれていた。どの例に於ても,屏風は王と関わりを持ち,道教を主要な思想的背景としていることでも一致している。それらはみな,一貫した図像体系,バランスよく保たれた構図,自信に溢れた様式,そして儀式的な用途を持つ成熟した作品である。東アジア全体を橋渡しするこうした要素は,共通の根を持つ日月図屏風の伝統を感じさせ,金剛寺本もその中に位置づけることができそうである。しかし,ひとつながりの伝統という考え方は,同時に,その内部での,各国における逸脱や変化をも視野におさめなければならないだろう。その日本特有の事情の調査についてはなお検討を要するが,なぜ日月のモチーフが,金剛寺本においてやまと絵の風景と組み合わされたのかという問いに関しては,結論から言えば,後醍醐天皇(1336-1392)が南朝をたてて北朝に対抗した南北朝時代に,その理由を求めることができそうである。つまり,金剛寺の屏風は,南北朝争乱の後,後醍醐天皇を偲ぶために制作された可能性がある(注12)。なぜなら,争乱の時代,後醍醐天皇は,中国の文化的な伝統に深く傾倒し,道教や密教を学び,さらに中国の権威を象徴するものに深い関心を寄せた結果,日月の図像を彼自身の正当な権威の象徴として復興させたことが考えられる。たとえば,後醍醐天皇は,天皇像(清浄光寺蔵)や味方の軍旗に日月のモチーフを配し,自己の政権の正当性を主張した。のみならず,金晴寺そのものが,南北朝の争いに深く巻き込まれ,後醍醐の同盟者として関わっただけでなく,その後継者であった後村上天皇(1328-1368)や長慶天皇(1343-1394)の一時的な行宮ともなったのである。ということは,金剛寺本の風景が,単なる四季絵ではなく,名所絵とも,あるいは,その土地固有の本地垂逃曼陀羅とも読める可能性が出てくる。言いかえれば,日月の下に広がる風景が,南朝の拠り所であった聖地,たとえば吉野山と熊野三山を表すという可能性が。実際,平安以来,やまと絵の屏風が宮廷において皇室の背景をなす調度として使用されていたことを考えると,金剛寺の日月山水図屏風が,南朝との関係によって金剛寺に持ち込まれたか,あるいは奉納されたことは大いにありえる。しかも,密教寺院においては,伝統的に,やまと絵山水図屏風は,皇室の人々が儀式への参加を待つ客-640 -

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