絵本夜討曽我台に,夜討前の兄弟と二人を取り巻く人々とのやりとりや,夜討での悲願達成,事件の収拾に至るまで,物語の筋が丹念に描き込まれている。これまでに調査することのできた15点および,図版などで確認した4点の「曽我物語図屏風」(リスト参照)の,図様や構図,プロットの選択などを比較検討した結果(画面構成図,プロット・モチーフ一覧表参照),右隻と左隻の画面構成が著しく異なっていることに気づいた。右隻が狩場という一つの空間の中にモチーフを配し,大画面全体が狩猟図として完結しているのに対し,左隻は物語の筋書きを事細かに絵画化して嵌め込むために,主要人物が何度も登場し,多場面多時間の複雑な画面となっている。この右左隻の違和感の原因を,「富士巻狩図」と「夜討図」の図様と構成が完成する時期に時間差があるためと推測した。「月次風俗図」中〔図3〕や扇面画〔図4-1〕などの古い作例や文献から,「富士巻狩図」が既に室町後期にはポピュラーであったことを確認し,一方で「夜討図」の図様とテキストの詞章を照合し,「夜討図」の典拠が真字本,流布本の「曽我物語」のいずれでもなく,幸若舞曲「夜討曽我」「十番斬」であることを検証した。これにより,一双形式の屏風絵が成立する際に,右隻にはそれ以前に完成していた「富士巻狩図」を転用し,左隻には幸若舞の舞本の挿絵によって一気に大量に提供された図様を用いて「夜討図」を完成させたという考察に至った。以上が今回の調査研究以前に,私が曽我物語図についてたどってきた経過である。今回はさらに同時期の芸能における曽我物の系譜と比較することで,一双形式の屏風絵成立,すなわち右隻「富士巻狩」よりも遅れて現れた左隻「夜討図」の登場の状況と時期をしぼり込んでいこうと考えた。絵画と芸能は,絵画化・脚本化の過程で物語の筋書きを抽出し視覚化するという点で共通するため,同一の物語を典拠とする場合,絵画の図様とプロット,芸能の所作と脚本など,構成の在り方に相互の影響が見られるのではないかと推測したのである。曽我物語は,幸若舞,能,浄瑠璃,歌舞伎など,室町時代から江戸時代に至るまで,その当時最も隆盛した芸能に必ず取り入れられ,非常に多種多様な展開をみせた。テーマも兄弟の父の死の顛末や,兄弟の幼少3冊-649-江戸初期大谷女子大学図書館(中野荘次氏旧蔵)
元のページ ../index.html#659