(1551)正月5日の条に「今日北畠之千秋万歳参曲舞,和田酒盛,次こし越,次ゆり条の紋なり」というように絵画に結びつきやすい表現がなされている。「夜討図」においては37種全てもしくは十数種の幕紋が仮屋の景観として必ず描かれる〔図5〕。一対形式の初期作例である扇面〔図4-2〕でも「富士巻狩図」の対として選択されたのは幕紋尽くしであった。幕紋尽くしは夜討の舞台となった仮屋を象徴するものとして受け継がれ,幕紋尽くしの詞章を伴わない流布本曽我物語や古浄瑠璃本の挿絵にも描かれる〔図6,7〕。以上のことから,「夜討図」が絵画化される際に,他の芸能ではなく幸若舞の脚本が下敷きにされたことが改めて確認できた。調査の次の過程として,芸能における曽我物の各々の展開を辿ってみた。まず曽我物語図か「富士巻狩図」として成立した後,「夜討図」が完成して一双形式の屏風が成立する室町時代中期から後期にかけて盛行していた芸能,幸若舞と能を追ってみた。幸若舞は,室町時代中期以降盛行した曲舞の一派で,南北朝時代の桃井直詮が草紙物に節をつけて歌ったものが流布し,直詮の幼名幸若丸の名をとったという伝承がある。幸若舞という言葉の初見は『管見記』嘉吉2年(1442)の条とみられる。詞章の祝言性から祝い事の際に演じられることが多く,『言継卿記』には天文2年(1533)をはじめに,正月の吉例として宮中で舞われたことが十数回記録されている。戦記物に取材した武家的要素の強い内容から武家層の支持を得,特に戦国時代の武将が好んだ。織田信長が越前幸若舞本家に100石を与えて保護したことがよく知られる。江戸時代になってからも幕府の式楽とされ,能楽者よりも厚遇されたが,現在は島津氏が保護した大頭流の幸若舞が,福岡県山門郡瀬高町大江に伝わっているのみである。幸若舞の曽我物は概して曽我物語の流布本の内容と一致し,ドラマ性を高めるために物語の補足的な挿話を省き,本筋部分に脚色を加えたものとなっている。曽我物語を典拠とする曲は「切兼曽我(一満箱王)」「和田宴(和田酒盛)」「小袖曽我(小袖乞)」「元服曽我」「夜討曽我」「十番斬」「飼讃歓」の7曲が挙げられる。幸若舞の曽我物に関する文献は,前身の曲舞(室町中期以降は幸若舞を指した)を含め,古くは『康富記』応永30年(1423)10月1日に曲舞「元服曽我」,『言継卿記』天文20年若少等也」,『兼見卿記』天正8年(1580),京都下御霊にて幸若八郎九郎による「曽我十番切」,『駿府記』慶長20年(1615)7月5日には幕府の命により同じ幸若八郎九郎による「和田宴」などの記事がある。-656-
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