/1516年奥書)によれば「夜討曽我」「小袖曽我」「御坊曽我」「説子曽我」「櫃切曽我」(1429■1441年)とみなすことができる。また『能本作者註文』(大永4/1524年奥書)同時期に能の謡曲にも曽我物語の説話が盛んに取り入れられた。そのほとんどは四番目物の現在能で,幸若舞と同名は「切兼曽我」「和田酒盛」「小袖曽我」「元服曽我」「夜討曽我」「+番斬」の6曲で,幸若舞曲を母胎にして新たな脚本がなされたと考えられている。他に「調伏曽我」「禅師曽我」「大磯」「御坊曽我」「対面曽我」「剣曽我」「伊豆明神」「待よひ」「箱根曽我」「祝子曽我」「虎送」「裾野塚」「追懸時致」,近世の新作に「小袖乞」「花見曽我」「狩場曽我」「櫃切曽我」があり,二番目物の修羅物には「伏木曽我」,近世になって「井出詣曽我」「助成寺」「幽霊曽我」「円覚寺」「箱根天狗」がある。能の曽我物は曲数が多い上に,テーマも母子や恋人の情や主人への忠義,兄弟の霊の鎮魂といった物語の本筋からやや離れる傾向があり,様々な脚色がなされている。能の曽我物が記録に登場するのは,永享4年(1432)に矢田猿楽での「曽我元服」,永享8年(1436)声聞師北畠松柏による宮中での猿楽「和田酒盛」が早い例である。「十番切」は金春禅鳳(明応〜永正期/1492■1531年に活躍),「虎送」は金春善竹(世阿弥の娘婿,1405■1470年か)の作と伝えられ,また修羅物の傑作「伏木曽我」は世阿弥の周辺で作られたと考える説もある。さらに特出するのは能作者,宮増の存在である。宮増は生没年など詳細不明の伝説的人物で,「元服曽我」「調伏曽我」の二曲が宮増作と特定され,『自家伝抄』(永正13「文削曽我」も宮増作と伝えられている。前述の矢田猿楽の「曽我元服」が宮増作の「元服曽我」であるとし,また『一禰宜氏経神事日記』の永享10年(1438)6月18日の宮益大夫の法楽猿楽の見物をするために宮比矢乃審宮の祭礼を急いで終わらせたという記事に見られる「宮益大夫」が宮増を指すととらえ,宮増の活躍期は永享頃に「脇之上手」と記された大和猿楽系の能役者,宮増大夫(文明期/1469■1488年活躍)をはじめ,宮増姓を名乗る能役者は室町中期から後期にかけて数人確認されており,少なくとも宮増ー派が曽我物の謡曲化に深く関わっていたと思われる。以上を整理すると,幸若舞においても能においても曽我物はそれぞれの草創期から現れたようで,屏風絵と結びつく「夜討曽我」「十番斬」は能においては宮増の活躍期に当たる15世紀中頃までに成ったと考えられ,従って謡曲の母胎となった幸若舞曲の成立はさらにさかのぼると推測される。いずれにせよ現存最古の一双形式の屏風絵よりも1世紀程さかのぼることになる。-657-
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