鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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14〕などが,あいついで刊行されている。さらに挿絵本や版本が盛行するこの江戸時(1643)版の「小袖曽我」,寛文4年(1664)の「和田酒盛」がある。薩摩大夫の古浄であるのに対し,壬生狂言では十郎は色白の,五郎は赤ら顔の面をつけ〔図10〕,兄弟の個性化はより絵画のイメージに近いものとなっている。以上,これまで屏風絵成立期の芸能の曽我物,幸若舞と能の概観から,先行する「富士巻狩図」の対として「夜討図」が登場する際に,幸若舞曲「夜討曽我」と「+番斬」を典拠としたこと,しかしながらその屏風絵成立期が幸若舞の成立期から1世紀程下ること,実際の幸若舞の演出は図様を生み出しえないことが確認できた。加えて,画系や構図が全く異なる屏風間に共通するモチーフが見いだせたり,図様の組み合わせがまちまちであることから判断して,幸若舞の詞章から直接屏風絵の「夜討図」が構成されたのではなく,他に用意されていた大量の図様を借りてきて屏風絵の左隻という大画面に組み立てていったと考えられよう。その大量の図様を提供したのは,やはり室町時代後期から盛んに作られた,挿絵本や絵巻とするのが妥当ではないか。これに照合するように,曽我物語図屏風の初期作品,土佐光吉本や大阪市立博物館本が制作された頃,幸若舞の舞本は簡易な読み物として流布し,奈良絵本など肉筆の挿絵入舞本「夜討曽我」の作例が多く見られる。こうした幸若舞本の挿絵を経て一双の屏風絵が成立したと推定できよう。最後に時代が下って曽我物語図および芸能の曽我物が豊かに展開する様子を眺望してみたい。屏風絵の作例が急増する17世紀初めから中ごろにかけては,元和寛永期の古活字本「曽我物語」〔図15〕,正保3年(1663)の丹緑本「曽我物語」〔図16〕,慶安3年(1650)の版本「夜討曽我」〔図17〕,寛文3年(1663)の版本「曽我物語」〔図代前期には古浄瑠璃,歌舞伎の曽我物が盛んに演じられ,曽我物語が更に広範に享受されていく。古浄瑠璃の曽我物は,寛永12年(1635)以前に薩摩太夫浄雲が「夜討曽我」を語ったことが知られている。そもそも薩摩大夫という名も島津候に披露した「夜討曽我」の褒美に賜ったという。元和3年(1617)に閣幕まもない江戸へ来て,幸若舞を取り入れた形で浄瑠璃を紹介した。寛文2年(1662)に上野殿邸で「アヤツリ芝居和田酒盛」を演じたことが『大和守日記』に見られ,薩摩大夫による正本には窺永20年瑠璃は,幸若舞から本文をそのまま借りて浄瑠璃の常套句を加えただけというものであった。同じ頃大阪の道頓堀では井上播磨大夫が人気を博していた。播磨大夫は「ふ-660-

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