じまきがり」「きりかね」などを演じているが,「ふじのまきがり」は幸若舞の「夜討曽我」と「+番斬」をあわせた部分に相当し,幸若舞曲の歴史的背景を語る部分を略し,逆に幸若舞にない説話を流布本から取材するなど独自の脚色をしている。義太夫節による浄瑠璃が行われるようになってからも,曽我物は変わらず好まれ,近松門左衛門も「世継曽我」や「曽我扇八景色」など11本の曽我物の脚本を書いている。一方江戸歌舞伎においては,曽我物はめざましい展開を見せた。延宝3年(1675)5月山村座「勝関誉曽我」がその最初とされ,元禄10年(1697)5月,市川団十郎による「兵根元曽我」の成功は著名である。元禄元年(1688)に江戸の芝居小屋四座全てが曽我物で大当たりしてから,曽我狂言は初春の吉例となり,各座が毎年新作の曽我物を発表したため,無数の曽我物歌舞伎が作られるようになった。また宝暦3年(1753)の市村座の春狂言の成功を機に,春狂言が当たって5月まで続いた時には曽我祭が催された。さらに曽我兄弟を祀る荒人神を各芝居小屋の楽屋入口に勧請し,討ち入りのあった5月28日に祭りを行ったという。曲舞以来受け継がれた曽我物の祝言性が強調され,室町時代の曽我物語が持っていた御霊信仰や仇討ちの精神は薄らぎ,歌舞伎において曽我狂言は極めてめでたい出し物として受け入れられた。特に兄弟が親の仇の祐経と初めて出会う「対面」〔図11〕は吉例の中でも最もポピュラーな出し物であった。また歌舞伎には助六のように物語の筋とは全く無縁の曽我物も数多く演じられており,曽我物語の受容の裾野はさらに広がっていた。脚本の内容は屏風絵に用いられた説話とは重なるところはなく,絵画と共有するのは,千鳥と蝶の兄弟の衣装や祐経の庵に木瓜の家紋などの登場人物の衣装においてのみであるが,登場人物の個性化には幕紋尽くしの流れは続いている。大和文華館本の曽我物語図屏風〔図18〕のような芝居絵系統の絵画や脚本の挿絵では,幕紋は登場する御家人たちの狩衣の文様に転用され,さらに幕紋尽くしは曽我物語を暗示するものとして「曽我文様」とも「夜討文様」とも呼べるような意匠〔図19〕にも発展していった。一方で,歌舞伎の隆盛は浮世絵と密接に結び着き,芝居絵や役者絵といった独自のジャンルを生み出した。この場合の絵画と芸能の関係は,役者の衣装や名場面の見得などの所作の記録であり,視覚的イメージの共有そのものである。特に浮世絵版画には曽我物語に取材したものが実に沢山伝存するが,今回はまとめることができなかった。今後は曽我物語図が一双屏風として完成した後,挿絵本の隆盛と歌舞伎の曽我物の豊かな展開の影響を受けつつ,さらに新たな展開を見せていく近世以降の曽我物語図を探究していきた-661 -
元のページ ../index.html#671