ここで‘skill'ということが強調されているのは,‘masterpiece'の本来の意味が,第一定義にあるような‘test-piece'であったという事実と深く関係するのであろう。日本語の「傑作」や「名作」には,特に技術的な優秀性は求められていない。もちろん,すぐれて出来ばえがよいという場合,そこに技術的な観点が含まれていることは否定できないが,それはごく一部にすぎないであろう。ここに英語の‘masterpiece'と日本語の「傑作」や「名作」との大きな違いがあるように思われる。与謝蕪村は多くのすぐれた絵画作品を残してくれた。それらのなかから,蕪村の傑作として,私は個人コレクションに収まる三つの作品を取り上げようと思う。つまり「峨帽露頂図巻」と「富岳列松図」と「夜色楼台図」である。私はこれを三大横物と呼ぶことにする。もちろん,この三つの作品を蕪村の傑作と見なす評価は,私が新たに下したものではない。多くの日本絵画研究者によって,傑作と考えられてきた。例えば,早川聞多氏はこれらを「植物三部作」と呼んで,特に重要な作品と位置づけている。現在,三作品とも重要文化財に指定されている事実は,傑作としての評価を客観的に証明するものということができよう。蕪村は晩成の画家といわれる。蕪村の現存絵画作品は,元文二年(1737)の序を有する露月撰『俳諧卯月庭訓』に入集した一句に添えた俳画を最初とする。ときに蕪村二十二歳であった。そして,天明三年(1783)六十八歳で没するまでの四十六年間にわたるものが遺されている。しかし蕪村のすぐれた作品は,明和七年(1770)五十五歳のとき,夜半亭二世を継いだ以後のものに多い。やがて安永年問(1772■80)に入って画風大成期を迎えるのだが,そのなかでも安永七年(1778)六十三歳のとき「謝寅」を名乗るようになって以後の最晩年期,いわゆる謝寅時代の作品に傑作が多いのである。もちろん,若年の作品にまったく見るべきものがないわけではないが,晩成の画家という評価を覆すことは難しいであろう。特に,蕪村の好敵手であった池大雅が,二十代の後半には傑作をものし,四十代に入ると同時に自己様式を確立している事実と比較するとき,蕪村の晩成ぶりが際立つことになる。ここで取り上げる蕪村の三大横物は,彼の謝寅時代に制作された作品にほかならない。「峨媚露頂図巻」と「夜色楼台図」には,「謝寅」の落款がなされている。「松林富岳図」の落款は「蕪村」であるが,様式的にみて謝寅時代の作品であることは間違いない。この事実を知るとき,この三大横物が傑作であることも素直に納得されるのple of some department of art or skill, or of some particular kind of excellence. -689-
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