鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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Dai]筆「山水図冊」(細川譲貞コレクション)のなかの一図は,その典型的作例だ(1731)わが国へやってきた沈南頻[ShenNanpin]の感化である。沈南藤の「寒林である。もちろん,謝寅時代に制作された蕪村画が,すべからく傑作であるというのではない。しかし,少なくともこの三大横物が謝寅時代の作品であるのは,晩成の画家蕪村にいかにもふさわしいことであるように思われる。いや,蕪村が晩成の画家であるという評価の一端は,この三大横物にあるといった方が正しいであろう。私がこの三大横物を蕪村の傑作と見なす理由はいくつかあるが,もっとも重要な点は,日本文人画のもととなった明清の中国文人画,もっと広く中国画の様式や技法を学びつつ,蕪村がそれを完全に自已の様式や技法に,さらに内容表現に変容せしめていることである。このような変容は,もちろんほかのすぐれた文人画家においても起こっているから,それらと共通する要素を抽出するならば,日本化と呼んでもよいであろう。それはともかく,この理由は,二つの側面を有していることになる。つまり,中国絵画からの影響と,それからの逃避という矛盾する要素である。日本文人画が,中国文人画を中心とする中国絵画の強い感化のもとに成立したことは,すでに常識に属する。蕪村も例外ではなかった。例えば,四十五歳のときの作品「倣米南宮[MiNangong]山水図屏風」(ロサンゼルス・カウンティー美術館所蔵)は,そのころ長崎を通してたくさんもたらされたあまり質の高くない{丼市}[Mi Fu]様式の山水画(米法山水)を学んでいたことを示している。このような米法山水は,明未から盛んに制作された倣古山水画帖のなかに必ず含まれているものである。例えば,この蕪村の屏風とほぼ同じころ制作されたと推測される唐岱[Tangといってよいであろう。蕪村が{舛市}に倣ったと書いているのは,その真筆に倣ったという意味では決してない。蕪村が実際に日本へやってきた来舶清人画家の作品から大きな差し響きを受けたことは,改めて指摘するまでもない。もっともよく知られているのは,享保十六年野馬図」(藪本家蔵)から直接的影響を受けた作品が有名な寺村家コレクションにある。また,蕪村みずから,馬は南蹟に倣い人物は自家の法を用いたと書き入れる「牧馬図」も知られている。このような南蹟学習最大の成果が,屏風講時代を代表する四十八歳のときの作品「野馬図屏風」(京都国立博物館蔵)である。この屏風はなかなかにすぐれた力作であるが,マスターピースと呼ぶことは躊躇される。もとになった沈南蹟の手法が,あまりこなれることなく,ほとんどそのままに現われているからで-690-

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