ある。蕪村は中国の画譜からも,中国画家の手法やモチーフを学んだ。すでに指摘されているように,清初に刊行された王概およびその兄弟による画譜『芥子園画伝』は,きわめて強い影響を与えた。三十九歳から四十二歳に至る丹後時代の作品である「山水図」(個人蔵)は,『芥子園画伝』に載る楊文{馬聰一耳}[Yang W encong]の山水図がモデルとして利用されていることが明らかだ。蕪村が『芥子園画伝』からいかに強い差し響きを受けたか,彼の俳諧理論の中心をなす離俗論が,『芥子園画伝』に紹介される画論を俳論に応用したものであったこと一つを取り上げてみても,多くを語る必要はあるまい。しかも,蕪村が感化を受けた中国の画譜は,『芥子園画伝』だけに限られなかった。先の「山水図」と同じく丹後時代の制作にかかる「四季耕作図屏風」(個人蔵)には,明末に刊行された顧柄[GuBing]の『歴代名公画譜』(『顧氏画譜』)から,周東頓[ZhouDongdun]の牛車図と杜菫[DuJin]の唐箕図の図様を,ほとんどそっくり借りてきている。それはモチーフの問題とともに,版本の硬い描練か屏風のなかへ入っていく過程とも重なることになる。このように,蕪村は版本を含めた中国画から大きな感化を受けた。右に取り上げた作品は,すべて丹後時代や屏風講時代,つまり画風大成期以前のものである。そのような影響は,その後徐々に蕪村のなかでこなれていったにせよ,謝寅時代においても完全になくなったわけではなかった。いや,むしろ蕪村はそれを意識的に残す場合さえないではなかった。なぜなら,中国的要素こそが,作品の正統性と古典性を保証したからである。われわれはここで蕪村の俳諧に目を向けることにより,それをはっきりと認識することができる。蕪村の俳諧が漢詩を含めた中国文学からきわめて強い影響を受けていることは,すでに国文学における定説となっている。それは俗の文学である俳諧に雅の要素を加え,俳諧を雅の世界に引き上げる役割を果たした。蕪村みずからその間の事情を明らかにしたものこそ,門弟,黒柳召波[くろやなぎしょうは」の遺稿集『春泥句集』[しゅんでいくしゅう]に寄せた序に見える「離俗論」にほかならない。蕪村は召波から俳諧の本質について問われたのに対し,俳諧とは俗語を用いて俗を離れるものであり,俗を離れて俗を用いることがもっとも肝要であると答える。召波はとりあえず納得したものの,さらに続けて,いろいろ考えたりすることなく自然に俗を離れる方法があるかどうかを尋ねると,蕪村は,貴方は漢詩が上手なのだから,-691 -
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