Shen]の筆致につながっていく。私見によれば,それは揚州八怪に大きな影響を与ほかに気を散らすことなく,それを一生懸命やりなさいと答える。召波はよく理解できず,漢詩と俳諧はいささか趣を異にするものなのに,俳諧ではなく漢詩を勉強せよというのは,迂遠に過ぎるのではないかと質す。これに対して,蕪村はつぎのように答える。画家に去俗論という考え方があり,画の俗を除去するのにも読書が一番であるといわれているくらいであるから,漢詩と俳諧とが,どうして関係ないといえようかと。これすなわち蕪村の離俗論である。俗的な俳諧に対し,漢詩を雅的なもの,つまり正統であり古典であると見なす蕪村の考えが端的に示されている。蕪村はこの見解の正しさを傍証するために,『芥子園画伝』初集に収められる「去俗」理論をもってきたわけである。ここには,召波が服部南郭[はっとりなんかく]や龍草虚[たつそうろ]に学んで名高い漢詩人であったという個別的理由がなかったわけではないが,それだけではあるまい。蕪村の漢詩に対する視点が,何よりもはっきりと示されているのである。それは中国絵画に対する視点でもあった。このようなわが国における日中絵画観は,古代以来の伝統であり,もちろん蕪村もその子孫であった。よく知られるように,平安時代,内裏の清涼殿の弘庇[ひろびさし]に立てられた衝立障子では,表側に空想上の怪人である手長・足長のいる荒海の図や,漢の武帝が夷族との水戦に備え訓練のため長安の西南に造らせた大きな池である昆明池の図が描かれていた。一方,その裏側には宇治の網代や嵯峨野の鷹狩りのさまがとらえられていた。つまり,表側には唐絵,裏側にはやまと絵を配したわけである。あくまで唐絵が正式なものであり,やまと絵はそれに準じるものであった。このような清涼殿弘庇障子にまでさかのぼりうる唐絵とやまと絵の雅俗関係は,以後日本絵画史の通奏低音として,つねに奏でられることになった。さらに敷術すれば,それは日本文化の通奏低音であったといっても過言ではないだろう。ここで改めて三大横物に注目してみよう。まず「峨媚露頂図巻」はどうだろうか。いままで見てきた蕪村の作品とずいぶん異なっている。しかし,私はここにも中国画との関係を考えたいのだ。心のままに筆を遊ばせたとでも形容したいきわめて自由な跛法は,蕪村と時を同じくして活躍していた揚州八怪の手法を思わせるところがある。例えば,それは画題の違いを越えて,李{魚箪}[Li Shan]や黄慎[Huangえた清初の石濤[Shitao]にまでさかのぼるものなのだ。石濤は董其昌[Dong-692-
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