Qichang]によって整備された呉派の形式的手法を嫌い,北宋以来のすぐれた伝統を有する墨戯へと回帰を試みるとともに,それを自已の自然観賞のうちに解き放って,独自の画風を確立した明の遺民画家であった。私が知ることのできた石濤画のうちには,「峨媚露頂図巻」と直接結びつくものは見出せなかったが,このような石濤画,あるいはその模倣画があった可能性も考えられてよい。なぜなら,同じく遺民画家の張風[ZhangFeng]の「山水図(北固柳煙図)」(北京・故宮博物院蔵)に見られる鼓法などは,「峨媚露項図巻」のそれにとてもよく似ているからである。張風は石浣より一世代さかのぼると思われる道民画家で,山水・人物・花鳥いずれも得意としたが,走るような速筆を縦横にふるった減筆体に見るべきものが多かったという。それはそのまま先の「山水図」の特色なのである。むしろ蕪村は,このような中国画を目にする機会があったのかもしれない。巻末近く,三日月が塗り残しの手法で表わされていることも看過できない。この図巻を描くにあたって,蕪村は有名な李白の「峨眉山月歌」から霊感を得た。三日月はその詩のなかに歌われるモチーフなのだが,これが本図巻においていかに印象深く表現され,いかに重要な役割をになっているか,くだくだしい説明は必要あるまい。蕪村が特に多用したというわけではないが,塗り残しは彼が愛してやまぬ手法であった。そのもっともみごとな成功例として,「鳶鵠図」(北村美術館蔵)がある。例えば,蕪村のつぎの世代に属する岸駒の「雪中雀図」と比べてみるならば,蕪村が自然の真実をとらえる技術においても,いかに傑出した画家であったか,一日瞭然たるものがある。それはともかく,この技法は中国から,それも比較的新しくもたらされたものであったと推測される。やまと絵においては,基本的に雪は胡扮をまき散らすことによって表わされたからである。この技法を蕪村に教えたのは,新しい中国画であったにちがいない。島崎で沈南頻の弟子熊斐[ゆうひ]に学んだ宋紫石[そうしせき]の雪中花鳥図には,塗り残しの手法で雪を表わした作品が多い。その代表的作品として,明和二年(1765)の「聯珠争光図(雪中南天小禽図)」(神戸市立博物館蔵)がある。塗り残しによる雪の表現は,来舶黄槃[おうばく]僧の大鵬正鱚[DapengZhengkun] も好んだもので,多くの雪中竹図が遺されている。蕪村の「蘇鉄図屏風」(妙法寺蔵)は,この大鵬や,同じく黄槃僧で熊斐に学んで南蹟画風をよくした鶴亭[かくてい]の手法から大きな感化を受けた作品であるから,塗り残しの手法も,あるいは黄槃絵-693-
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