画との関係が想定されよう。いずれにせよ,塗り残しは斬新な中国的技法であり,「峨媚露頂図巻」の三日月も,例外ではないのである。「峨媚露頂図巻」の構成も,中国画と無関係ではありえないだろう。すぐに思い起こされるのは,宋末元初の画僧玉澗[Yujian]の「薩山図」(岡山県立美術館蔵)である。もっとも,これは江戸時代のはじめに三つに切断された右側の主要部分であり,それ以前の完全な姿は,その標本(根津美術館蔵)によって知ることができる。巻初に題と落款を入れ,あとは山頂を描き連ねて巻を閉じる蕪村の構成は,何とよく「薩山図」と似ていることであろうか。徳川家の宝物であった主要部分を,蕪村が直接見た可能性はほとんどないが,先の模本やさらにその模本であれば,まったく機会がなかったわけではあるまい。さらにこのような構成の中国画は,ほかにもあったであろう。画面形式からいえば,わが国を象徴する画面形式である絵巻物と結びつけたくなるが,中国にも古くから画巻形式は存在した。しかも「菌山図」のようによく似た構成の画巻があった。「峨媚露頂図巻」の構成には,中国画の投影を見るべきなのである。「峨媚露頂図巻」も,それまでの蕪村画がそうであったように,中国絵画から抜き差しならぬ影響を受けている。しかし,それまでの蕪村画と異なるのは,それが完全に蕪村化され,蕪村独自の表現に昇華している点である。もとになったと推定される中国画との比較は,それまでの蕪村画の場合と異なり,それからの影咽ではなく,それからの離脱を認識させる結果となった。南宗画でもなく,俳画でもない。謝寅の寅を採って,寅画とでも呼びたいような独創的絵画世界である。ここに傑作たるゆえんが存在する。それでは,「峨媚露頂図巻」のような中国的主題ではない「富岳列松図」はどうであろうか。この作品の場合も,「峨媚露頂図巻」と事情はまったく同じであるように思われる。中国画からの感化を受けつつ,蕪村はそれを自己の表現に高めているのである。主題が日本のシンボルである富士山である分だけ,さらに中国影響から自由に離れることができたともいえよう。この「富岳列松図」に見るような雪山を淡墨あるいは中墨の外隈で表わすことは,明清画においてしばしば用いられた手法であった。ここでは,「峨媚露頂図巻」の際にも名を上げた黄慎の「山水画冊」(泉屋博古館蔵)のなかの一図を掲げておこう。薄めの墨の外隈によって雪山を表わし,近景に樹木を配する手法と構成は,ほぼ一致-694-
元のページ ../index.html#705