しているといってよいだろう。もちろん,蕪村の方は晴天を,黄慎の方はどんよりと曇った冬空を表わしているという違いはあるのだが,大局的にみれば,共通する要素の方が色濃く感じられる。確かに樹木の表現は異なっているけれども,蕪村のおもしろい松も,中国画のなかに見出されないわけではない。たとえば,明末清初の詩人であり画家であった梅清[MeiQing]の「高山流水図」(北京・故宮博物院蔵)には,とてもよく似た松が描かれている。それは遠景としてちょっと描き加えられているだけであるが,大変興味深いのは,梅清は「画松,奇気多し」と評されていることである。それは蕪村の松に関する評語としてもおかしくないであろう。このような松を主題に据えた梅清の作品があった可能性も,充分考えられてよい。「富岳列松図」は俳画とはいえないが,蕪村が俳画的姿勢をもって制作したことは,おもに俳号として用いられ,したがって俳画にしばしば見る「蕪村」が,この作品の落款として使われていることからも明らかである。その画趣も,蕪村の名吟「不二ひとつうづみ残してわかばかな」に通じるところが強い。俳詣にさえ漢詩の力を借りよと述べた蕪村が,このような「富岳列松図」においても中国画の創造力に目を向けたことは,不思議でも何でもないであろう。しかし,蕪村の「富岳列松図」はこれら中国画から霊感を得ているとしても,その痕跡をまったく残していない。蕪村独自といってもよい表現に高められている。ゆえにこの作品は傑作なのである。「峨媚露頂図巻」が中国に,「富岳列松図」が日本に主題を求めた作品であったとすれば,「夜色楼台図」は蕪村が自已を表現した作品であったといってもよいであろう。この作品を描く蕪村の胸中に去来したのは,京都東山の景であったにちがいない。降り碩もる雪のもとに軒を並べる家々のなかの一つで,雪明りを頼りに,蕪村はこの作品を描いているのである。それは京都東山を主題としながら,「うづみ火や我かくれ家も雪の中」といった佳吟に代表される「籠居(カザニエ)の詩人」蕪村その人を表現したものであった。三大横物は,中国,日本,そしてみずからを象徴した作品であった。前者がそうであったように,「夜色楼台図」も中国画と無関係ではなかった。墨の外隈によって雪景を表わすのが,明清画で常用された手法であったことはすでに指摘したとおりである。基本的に「夜色楼台図」もこの中国的手法によっている。しかし,蕪村はそこに胡粉の吹墨で雪を加えた。これによって,何と豊かな動きとニュアンスが画面上に生まれたことだろうか。このような手法は,古くから中国で用いられ,明末の絵画にはごく普通に見られたとする説もあるようであるが,かかるエ-695-
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