鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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芸的手法はやまと絵系の技法であった可能性が高い。たとえば「浜松図屏風」(東京国立博物館蔵)では,それがきわめて効果的に使われている。特に興味深いのは,蕪村が二十代の前期から中期にかけて江戸に住んでいたとき,同じく江戸に下向してきていた尾形乾山[おがたけんざん]が,その技法を好んで用いていたことである。たとえ乾山からの差し響きでなかったとしても,蕪村は明清画の技法に伝統的なやまと絵の手法を加えて,このような独創的画面を創り出したように思われる。東山のもとに連なる家並の表現は,ただちに雪舟の「唐土勝景図巻」(京都国立博物館蔵)を思い起こさせる。この図巻が雪舟の真筆か,あるいは模本であるかは,ぃまさして重要な問題ではない。重要なのは,このような雪舟画,あるいはそのもとになった明画を,蕪村が見ていたにちがいないことである。雪舟は日本人であったけれども,その芸術は中国様式と認識されていた。「夜色楼台図」の家並の表現が雪舟と強い関係に結ばれているとする私見は,雪舟その人の傑作として名高い「秋冬山水図」(東京国立博物館蔵)の「冬」と比べることによっても,傍証を得るであろう。雪舟の硬い描線が動きに富む生き生きとした筆致に変化する過程では,玉澗の「山市晴嵐図」(出光美術館蔵)のような中国画も,与って力あったのではないかなどとも想像されよう。「夜色楼台図」においても,蕪付は中国画ないしは中国画的表現から霊感を受けつつ,雪のもつ温かさを視覚化するという独自の表現に到達しているのである。したがって,これは東山の真景図などではありえない。俳諧において離俗論を唱えた蕪村が,虚実皮膜の問に築いた絵画世界であった。だからこそ,それがどんなに俳諧の世界に接近していても,題字は詩僧万奄原資[ばんあんげんし]の漢詩集『江陵集』[こうりょうしゅう]から採った漢詩の一節でなければならなかったのである。この作品がいかに傑出したものであるか,蕪村が霊感を得た中国画の末裔が逆に教えてくれる。ここに示したのは,清末民国初めのころと推定される黄呂筆「渾上人画冊」(細川護貞コレクション)のなかの一図である。以上,「峨媚露頂図巻」「富岳列松図」「夜色楼台図」の三大横物が,傑作と評価されるゆえんを考察してきた。結論を一言でいえば,手法は中国あるいは中国的なものから借りつつ,表現内容は日本化,いや,蕪村化されている。オリジナリティーにあふれている。ここに三大横物が傑作である理由が見出されるのである。しかし,だからといって,中国画との関係をまったく無視して,蕪村ただ一人でそれを創り出した-696-

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