ところで,美術の世界ではこの大衆化はどのような形で現れるのだろうか。『美術新論』という美術雑誌で「美術と大衆の関係」についての特集が組まれたのは,1927年1月号でのことである。美術もまた大衆を意識せざるをえない状況におかれていたのはまちがいない。美術の大衆化を緊急の課題としたのは,プロレタリア陣営であった。その行き着く先は印刷である。美術をなかでも絵画を労働者階級に持ち込むには,作品を多量に短時間にしかも廉価に作らねばならない。そのためには石版印刷術をわがものにする必要があるというのである(注3)。中野重治と蔵原惟人との間で,いわゆる「芸術大衆化論争」が『戦旗』誌上で闘わされたのは1928年のことであった(注4)。展覧会への出品者数や出品点数も,また展覧会を訪れる人の数も年々増える傾向にあり,美術が広く定着していくように見えながら,美術は大衆から離れていく一方であるというのが大勢の見方であったようである。美術に関して言えば,大衆化の波に乗り切れなかったのである。II 功利主義主として文芸界で,芸術の大衆化論争のあとをうけて「芸術の価値論争」が起こったのがちょうど1929年のことである。芸術を評価する際の基準として,芸術的価値あるいは芸術性と社会的・政治的価値あるいは社会性・政治性が問題になった(注5)。とりわけ,プロレタリア陣営にとっては,政治的価値こそ芸術性を決定するものであった。残念ながら,美術界では,目立った論争にまでは発展しなかったようである(注6)。このような論争は,芸術もまた社会現象のひとつにすぎないという考え方,さらに芸術は人生や社会のために役に立つものでなければならないという功利主義的な考え方を背景に出てきたもののように思える。前項でとりあげた芸術の大衆化の問題にしても,この功利主義の問題にしても,そもそもそういうことが問題になること自体,文芸にせよ美術にせよ,広く芸術というものがひとつの転換期におかれていたこと,芸術とは何かについて改めて考え直す必要に迫られていたことの表れととらえることができるだろう。従来の芸術家像や芸術観がこの時期大きく揺らぎ始めていたことを感じさせる。つまり,画家および絵画に限って考えてみると,天才としての画家像から人間としての画家像へ,それだけで自律した価値をもつという絵画観から絵画もまた何かに奉仕しなければならないという絵画観への変化を読みとることもできるだろ-63 -
元のページ ../index.html#73