鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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は,現代的な機械のイメージ,いわば人工的なものが多く目につくのであるが,実は画面はそのような人工的なものばかりからなっているわけではない。たとえば,《海》では,飛行船とともにカモメが飛び,潜水艦とともに魚たちが泳ぎ海草も浮かび,燈台を背に水着の女性が立ち,しかもその女性は,軍艦と向き合っているようにも,またこの画面のなかのすべてのものに司令を出しているようにも見える。画面は人工的なものと自然の生き物たちからなっていて,両者は融合しているようにも対置させられているようにも見える。しかし,ここでは女性が最も優位に置かれていることはまちがいないだろう。《烏籠》でも,画面は人工的なものと生き物の両者からなっているのであるが,裸婦は鳥籠に閉じこめられ,白鳥も暖炉という枠のなかを泳いでいるのが気になるところである。古賀は機械主義の風潮によってもたらされた新しい美の感党を取り入れながら,機械文明そのものについては,肯定と否定の間で揺れ動いていたように思えてならない。おわりに芸術の大衆化,功利主義,機械主義の風潮は,絵画に関する限り,画家たちに幸福をもたらすどころか,むしろ不安を多くもたらしたように思える。そのような風潮が出てくること自体,芸術が危機的状態にあることを意味しているのかもしれない。何故なら,いずれの風潮も,つまりは芸術そのものの否定へと向かいかねないものだからである。大衆に媚びるあまり,美術は平凡で画ー的で通俗的なテーマのみを追いかけることになるかもしれない。美術の大衆化の行着く先は,万人が美術を所有するということであり,そのためには複製や印刷によって美術を大量に生産する必要があるが,美術の個としての存在価値はなくなってしまうことになる。功利主義という視点からすれば,ビラやポスターのようなもので充分であって,高い芸術性は問われることはないだろう。功利性をとれば芸術性は犠牲になる。科学技術の進歩は,直接には印刷術や写真術の進歩という形で美術とかかわることになるのであるが,それは美術の量産化を産み,美術そのものの個としての質や高い価値を脅かしかねないだろう。古賀が《海》や《鳥籠》を描いた1929年前後という時代は,時代そのもののなかにこのような危険性を胚胎していた。この危機的状態を予兆し苦悩した画家のひとりとして,古賀春江をとらえることができるだろう。-66 -

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