鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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ーギャンの才能を認識する好機であったと同時に,絵画とそれらの相互作用の実体を浮き彫りにした。このように,20世紀芸術の先駆者としてのみ,あるいはあくまでもその絵画の展開との関係に於いて把握されてきたゴーギャンの彫刻を,19世紀彫刻のコンテクストの中で再検討することが肝要である,と筆者には思われた。そもそも彼は画家である一方で彫刻家としての明確な使命感をも持っており,ロダン等の同時代の彫刻家の活動にも関心を持っていたと推察されるにも拘わらず,その特異な作品は19世紀彫刻の枠組みから外れた存在と見なされてきたのである(注5)。しかしまさしく特異である故に,作品が生み出された背景を探り,それらに特有のコンテクストの中に位置づけることが必要ではなかろうか。アカデミックな彫刻を学び,ロマン主義的感性を具え,歴史主義の影響下に過去の様々な芸術に関心を持ち,20世紀プリミティヴィスムに至るゴーギャンの彫刻に於ける歩みは,ボードレールの言う退屈な彫刻,ロマン主義,ルネッサンスやバロックの様式を取り入れた折衷主義を経てロダンに至る19世紀彫刻史の縮図とも言えるのである。以下こうした観点から,ここではタヒチ渡航以前の幾つかの作品を選んでゴーギャンの彫刻の特質を明らかにするとともに同時代の彫刻家との関係に言及したい。2.初期作品1877年,未だ印象派展にも参加せず,一介の日曜画家にすぎなかった時にゴーギャンは彫り師ブイヨの持ち家を借り,彼の隣人となると同時に,大理石彫刻技術を学ぶ〔図1〕。その隣には同じ借家人として,ダンテ(コレージュ・ド・フランス前に設置)等の作品によって知られ,当時それなりの成功を収めていたジャン・ポール・オーベ(1837-1916)もいた。そこはフルノー街という彫刻家のアトリエの並ぶ一角であり,ベルギーから戻ったロダンも1877年以降この通りにアトリエを構えていた。1882年,肖像画を捧げていることから,ゴーギャンはオーベの指導に感謝していたことが知られるが,今やほとんど語られることのない当時のポピュラーな彫刻家がゴーギャンに対して果たした役割は未だ十分には強調されていない。オーベの作品はアカデミックな形式主義の上に,ロココ的優美さや,時にはロマン主義的表現性を加味したものであった。一方で彼は装飾芸術の重要性を認識しており,それはゴーギャンの思想形成にも少なからず貢献したと考えられる(注6)。ゴーギャンが後にリモージ-72 -

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