ュ焼きのアヴィランのアトリエで製陶に励み,陶芸に芸術性を付与しようと目論むようになる背景にはオーベの先例があった。他方,ォーベとの会話の中で,あるいは実際に,様々な彫刻家を知ったことであろう。オーベの友人であるダルーは1879年にロンドンから戻って以降オーベの許をしばしば訪れていた。また,青銅時代によって論議を惹き起こしていたロダンが話題に上らなかったとは考えにくい。ダルーを通じてオーベがこの頃ロダンと出会っていた可能性も十分あり得る(注7)。かくして彫刻家の世界に過ごした3年の間に,ゴーギャンは19世紀彫刻にほぼ通暁し,その問題点をも考える機会を得たと言えるだろう。しかし早くも1878年末,あるいは1879年初頭には,ピサロとの出会いを契機として印象派グループに接近し,絵画に於いて前衛芸術へと向かう,と同時に彫刻に関しても独自の試みが始められる。1880年頃から1885年までの木彫にはドガの影響が著しい。それはパリジェンヌ,カフェ・コンセールの歌手,踊り子等,主題に顕著であるほか,ドガが彫刻で試みていた複数の素材の混合,彩色についても既に指摘がある通りである(注8)。筆者はさらに,歌手,あるいはヴァレリ・ルミの肖像〔図2〕の中に,ドガの14歳の小さな踊り子〔図3〕に反映している人相学の影響を見たい。ドガが人相学に興味を持っていたことは既に指摘されている(注9)。人相学は18世紀末からラヴァテールらによって進められ,人相を人種的,杜会的,そして最近指摘されているように性的差異を視党化する記号として捉える(注10)。そして1870年代にはチェザーレ・ロンブローソが生得の罪人タイプを中心とする様々な杜会的タイプの人相を定義するに至っていた。彼によれば,娼婦など性的職業に就く女性は生来の罪人と発生学的に同じとされ,「大きく張った顎骨と頬骨,突き出た下顎,そぎ落としたような額[…]厚い唇」(注11)という,男性的で原始的な相貌を持つといい,それを女性の生物学的退化と見なしたのである。ドガの踊り子の中に当時の批評家たちか見た“恐ろしいレアリスム”,動物的醜さを持つ相貌(注12)は当時流行の人相学に基づいていた。ゴーギャンは,歌手を制作しながらドガのアトリエで踊り子をつぶさに研究することができたはずである(注13)。歌手の顔の表現にはゴーギャンには例外的なレアリスム,それも先に引いたロンブローソの言う男性的な特質によって変形されたレアリスムが認められよう。カフェ・コンセールの歌手は,オペラ座の歌手を夢見ながらレッスン代が払えなくて諦めた少女,帽子やその他の店の売り子,洗濯屋の店員など,いわゆる下層階級の出自の少女によって構成されていた(注14)。さ-73 -
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