注(1) Christopher Gray, Sculpture and Ceramics of Paul Gauguin, Baltimore, 1880年代後半,地獄の門によって批評を賑わし,ミルボーの言葉を借りれば“世紀の5.結語を肉体の動作によって表現し,ゴーギャンには作品以前に思想がある。しかしながら精神的病”或るいは“否定的現代の究極的苦悩”“あらゆる失望”を,形と肉付け,線の見事な創造のみによって表現したロダンの芸術にゴーギャンが無関心であったはずはない。続く木彫パネル愛せよ,さらば幸いならんにおける“身をよじるような性的快楽のあらゆる苦しみ”(注25)に,ミルボーの言葉の反映を見ることはできないだろうか。こうした地獄的図像はゴーギャン最晩年の作逸楽の家を飾っていた,同題のパネルにおいても支配的であることを付言しておきたい。ロダンとゴーギャンはその表現方法は全く異なりながら,同じ世紀末象徴主義の空気を吸っていた。しかも二人は当時流行の,例えばサン・マルソーやダンプトらの幻想的で気取りのある象徴主義と異なり,大胆な造形革新を秘めたアプローチによって力強い作品を生みだした。ゴーギャンはブルターニュ時代からボロブドゥール遺跡の浮彫中の人物のポーズを借用し(注26),タヒチ渡航以後はさらにオセアニアの芸術の装飾モチーフや造形的特徴を巧みに取り入れた作品を生みだし,20世紀プリミティヴィスムを準備した。しかしその場合でも作品の根底にあったのは彼独自のプリミティヴィスム思想であり,19世紀的な混成様式であった。この度の調査研究はゴーギャンがいかに様々な西欧文化を消化しながら新しい形を生み出していったかを示したと同時に,これまでほぼロダン一人の名に帰せられてきた19世紀彫刻をより幅広い角度から捉える一つの糸口となったと思う。20世紀に真の彫刻,すなわちイリュージョンに拠らず,それ自体の内的倫理に従って現実のメタファーを形成する彫刻が生まれるためには,ドガやゴーギャンのように彫刻家の社会体制の外側から彫刻の問題を考えることのできる芸術家が必要であった。表面装飾といういわば絵画的手法はそのためひとつの手段であった。以後,絵画と彫刻の相互作用の問題は,ゴーギャンの影響下に様々な造形手段を試みたマイヨールに受け継がれ,後にピカソのパピエ・コレやアッサンブラージュに成果を見いだすのである。-78 -
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