鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ムのテキストが広く知られるようになり,16世紀までには人文主義的教養の必須項目のひとつとなっていたと言っても良いだろう。有田氏は「何故後世がストイックの名のもとにストア哲学のもっぱら倫理的な側面をとらえたのか」という問題に対して,「古期・中期ストア文献の散逸Jとともに,「帝政期ストア学徒の文学的優秀性」と「倫理的著作が一般に有する人間的な親しさ」を掲げている。それと並んで「そのキリスト教倫理とのある種の類似」を指摘していることも見逃すわけにはいかない(注2)。また,オリジナルの古典テキスト以外に,16世紀後半から17世紀初期の著述家たちが盛んに紹介したり引用したりしたことで,古典学者にあらずともストイシズムの道徳的哲学に親しむことができたことも大きい。1630年代にローマでパルペリーニ家の司書を勤め,カッシアーノ・ダル・ポッツオとも親交のあったフランス人自由主義思想家(リベルタン)のひとりガブリエル・ノデは,1633年の自著の中で「昨今の道徳哲学の基礎を作ったのはギョーム・ド・ベール,リプシウス,モンテーニュ,ピエール・シャロンの4人である」(注3)と言っているが,この4人と彼等と師弟・友人関係にあった何人かの文人・学者たちの働きの結実として,ストア哲学や懐疑主義についての多くの知識をヨーロッパの上流階級の人々が広く共有し得たのである。ストイシズムが当時のヨーロッパの人々の心に単なる知識以上に浸透した背景としては宗教的・政治的不安の蔓延があったことは言うまでもないだろう。自由主義思想家(リベルタン)たちの信仰については一刀両断に判断することはできないが,少なくとも彼等が伝統的キリスト教に完全に背を向けていたとみることは誤解であろう。むしろ,新旧の宗教対立を目のあたりにして思想を深めた彼等の多くは,ストイシズムやピュロンの懐疑主義という世俗的倫理とキリスト教倫理の融合が,新教への熱狂からも旧教の権威主義的一面からも距離をとるのに有効であることに気付いていたのではないだろうか。当時のカトリックの主流から疎まれたり無神論的行動をとる者もいたが,彼等はカトリックを全面否定してはいない(注4)。彼等は宗教の現状を無批判に受け入れることはせず,ストイシズムの道徳哲学を案内役に各々の宗教的理想を模索していたとも考えられる。ストイシズムに造詣を深める過程で,初期キリスト教時代の著作にこの世俗的倫理に対する共感がちりばめられていることにも,おそらく気付いたはずである。彼等は同時代の熱狂的なカトリックに心から賛同することはできなかったのかもしれないが,それと敵対するポジションにいたわけで、はないことは,彼等の職業等から見てもたしかであろう。104

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