鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
116/759

サルヴァトール・ローザはパンボッチアンテイ的な画風から出発したが次第に哲学に基づく知的な主題を扱うようになったという点で,17世紀イタリア絵画におけるストイシズムの展開を考察する上で欠かせない画家である。彼がストイシズム的主題に取り組み始めたのは1640年から49年までのフィレンツェ滞在期で、あった。ローマでの生活に閉塞感を感じつつあったローザは,トスカナ大公フェルデイナンド2世の弟,ジャン・カルロ・デ・メデイチの招きに応じてフイレンツェに居を移すことになる。ジャン・カルロは1638年にスペイン海軍の総司令官に任命されていたが,軍事にはそれほど熱意を見せず信仰生活と芸術や演劇にエネルギーを注いでいた。ローザは当初ジヤン・カルロのために,その海軍での栄達を念じて大作の海景画に取り組んだ、り,それまでにキャリアを積んで、きたジャンルである風景画や戦闘画などを描いたりしていたが,164245年頃〈デイオゲネスとアレクサンドロス大王〉〔図3〕〈農耕から召喚されるキンキンナトゥス〉の2点のストイシズム的対作品を描くことになるのである。デイオゲネスは紀元前4世紀の犬儒派の哲学者で世俗的成功や物質的裕福さに価値を置かず,ぼろ切れをまとい樽を住処とした。あるときアレクサンドロス大王がデイオゲネスのもとを訪れ,「何なりと望みのものを申してみよJと言うと,「どうか私を日陰に置かないでいただきたい」と答えたという逸話が伝えられている(注8)。またキンキンナトゥスは紀元前5世紀のローマの政治家で,アエクイ人襲来のとき独裁官となって16日間でこれを撃退し,任務が終わると独裁官の地位を捨て農耕生活に帰ったという逸話の主である。16〜17世紀に再興されたネオ・ストイシズムではこのような徳のある人物や逸話を好んで取り上げていたので,これらもストイシズム的主題とみなされる。ジャン・カルロは1642年にスペインを表敬訪問するために艦隊を率いて出航したのだが厳しい船旅で部下たちも体調を崩し,彼の航海術に関する知識の欠如やトスカナ海軍の脆弱きを露呈する結果となってしまった。ジャン・カルロは帰国後海軍司令官を辞任したが,その頃ローザに注文したのがこの対作品なのである。そこに込められた思いは,デイオゲネスの如く世間的野心の愚かさを見抜き,だがキンキンナトゥスの如く必要とあらば公的任務を見事に果たさん,といったところであろう。この対作品は邸の応接室の壁に掛けられていた。スコットの指摘するように,このような重要な場所を飾るメッセージ性の強い作品の主題を若い画家任せにすることは考えにくく,ローザは注文主の意向に従って描いたのだろうと思われる(注9)。ここには画家自身の主張や自負はまだ感じられない。だが,これらがローザに変化のきっか106

元のページ  ../index.html#116

このブックを見る