けを与えたということはできるだろう。演劇的な身振りで描かれた個々の存在感を備えた人物像は,初期のパンボッチアンティ風の作品に見られたみすぼらしい格好の小さめの人物たちとは違っている。そして哲学的主題という未知のフィールドへの取り組み。ローザはこの後フイレンツェにおいて風景画,戦闘画,魔術関連の主題などを描く一方で,寓意や哲学といった知的主題に取り組むのである。公的注文の宗教主題で評価されず(注10),かといってマイナージャンルとされる風景・戦闘固などだけに活躍の場を限定されるのも潔しとしなかったローザとしては,宗教に匹敵する威厳あるフィールドを新たに開拓せねばならなかったのである。そんな彼がストイシズムに関心を抱くようになる背景として,フイレンツェでの交友関係は無視できない。ローザはフイレンツェの宮廷を通した社交関係などから徐々に自分と気の合う仲間とのより厚い交友関係を築いていった。やがて自分が主催者となって「アカデミア・デイ・ベルコッシjというアカデミーを創設する。これはアカデミーと言ってもサロン的な性格のものだが,この時代のイタリアでは各地でこうしたアカデミーが作られていたのである。「ペルコッシJとは「なぐられた」という意味のイタリア語だが,この種のアカデミーは気分的に軽い印象を与えるようなふざけた名称を戴くものが多かった(注11)。ベルコッシのメンバーはローザの家に集い会食しながら様々な話題に花を咲かせたり,詩の朗読をしたりしたのである。また,メンバーの多くが芝居にも熱中し,自分たちも役者となって喜劇を演じた。こうした知的な楽しみを共有できる友人たちのなかでも特に重要だったのは,自分より8歳若い学者のジョヴァンニ・パテイスタ・リッチャルデイで,博学な彼はやがてローザに知的な刺激を与えうる唯一の存在となっていくのである。ローザの絵画の主題は次第に意識的に教養あるものが多くなっていった。ペルコッシでよく話題に上ったであろう「正義」と「平和」は〈武器を燃やす平和〉〈羊飼いのもとから飛び、立つ正義〉という対作品に取り上げられたし,〈器を捨てるデイオゲネス(通称,哲学者の森)〉〔図4〕と『海に貨幣を投げ入れるクラテス』の対は世俗的な価値観を毅然として否定する古代の有徳者を主題としている。また,この時期の自分や他者の肖像画にも何かしら英雄的・知的メッセージが込められるようになってくる。実はローザがメデイチ家を解雇されるのはこの頃,つまり1646年初めの頃である。解雇の理由は明確ではないが,スコットの指摘するようにローザがパトロンの好む主題よりも自分の興味の対象に固執するようになっていたのは事実であろう(注12)。その後ローマに帰る1649年初頭までのロ-107-
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