ーザをあたたかく迎えたのはヴォルテッラの裕福な商人ジュリオ・マッフェイであった。マッフェイは知的な興味を共有できるパトロンではなかったが,ローザに居心地のよい環境を与えてくれた。画家はこの一家の所有するモンテリュフォリの別荘での暮らしを気に入っていた。親しい友人が集まれば芝居をすることもできたし,一番信頼を寄せるリッチャルディもしばしば訪ねてきてくれた。落ち着いた生活のなかでローザは思索を深めることができたのである。メデイチ家付属時代後半からマッフェイ家滞在期にかけて描かれたと考えられる作品には,上記のほかにも円形の〈ヘラクリトスとデモクリトス〉〈フイロゾフイア〉〈虚偽〉〈詩人の肖像〉〈リッチャルデイの肖像〉など哲学的な主題,あるいは肖像画であっても知的教養を意識したものが多い。また自画像を見ると〈パスカリエッロとしての自画像〉〈兵士としての自画像〉〈芸術家としての自画像〉〈哲学者としての自画像〉〔図5〕など,芸術的才能や知的雰囲気を暗示させ,しかも深刻な英雄といった表情を湛えているのである。その後ローザはローマに戻るが,ウルパヌス8世から厳格なインノケンテイウス10世の治下に変わった都は画家にとって,出発以前にも増して苦汁に満ちたものであった。しかしこうした逆境ともいえる状況の中で,ローザの自意識は一層高まったようである。以前から作っていた風刺詩は一層鋭さを増し自己主張も明確になり(注13)' 油彩制作も〈膜想のデモクリトス〉〈器を捨てるデイオゲネス〉〔図6〕という大作の対作品を完成させ,フイレンツェで築いた「道徳的主題の画家」としての側面をローマでも強く打ち出すのである。そして,これ以後のローザが展覧会に出品して買い手を探したり,版画を出版して自作を広く知らせたりして,特定のパトロンの束縛を受けずに独立したポジションを保ち続けたことは,ハスケルの著書にも詳しい(注14)。サルヴアトール・ローザの画業変選において,ストイシズム主題に取り組むことは,不運な状況に耐えつつ自意識に基づいた制作をすることと並行しており,ストイシズム的有徳の英雄に自己を重ねることによって自意識を強く託していると言えるだろう。ニコラ・プッサンがストイシズム的な作品に取り組んだ、のは意外に早く,1626-27年頃フランチェスコ・パルベリーニの為に描いた〈ゲルマニクスの死〉〔図7〕が最初であると考えられる。主題の出典は古代ローマの歴史家タキトゥスの記述だが,当時タキトゥスはモンテーニュの師であるミユレ(注15)や,リプシウスなど,ストイシズ108
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