鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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イtの歴史に強い関心をもっていたゲルマニクスはエジプトへ旅をするのだが,これはム再興の祖とされる人々に好まれていたが,有徳の人物が策略により苦境に陥るという内容はストイシズムの逸話によく見られるものである。1625年,アルプスの峠道の支配権をめぐるフランス,スペインの争いを少しでもカトリック側に有利に治めるために,時の教皇ウルパヌス8世は甥の枢機卿フランチェスコ・パルペリーニをパリに派遣した。しかし外交交渉は終始フランスに主導権を握られ,イタリアからの使節は政治的な成果なしにローマへ戻らねばならなかった。その後落ち着く間もなくフランチェスコは今度はマドリッドへ派遣されたのだが,この外交も思うように運ばず1626年秋には失意のうちに帰国する。彼が友人マルチェロ・サケッテイを通じて知り合ったプッサンに〈ゲルマニクスの死〉を注文したのはこのような時期であった。当時,過去の英雄に託して時の支配者をたたえることは珍しいことではないし,権力を掌握する者は古代ローマ帝国を多少とも意識していたとすれば,こうした主題を枢機卿フランチェスコが注文したのも不思議はない。だがこの頃の枢機卿の立場を考慮すれば,特別な思いを託していたことも考えられる。古代ローマのゲルマニクスはアウグストウス帝の孫娘と結婚し若くして将来を嘱望された有徳の人物だった。アウグストゥスはゲルマニクスの伯父のテイベリウスを次の皇帝に指名するとき,ゲルマニクスを養子にすることを条件にした。ゲルマニクスは部下たちからも厚い信頼を得た有能な武将であったが,それが次第に伯父テイベリウスに警戒心を抱かせることになった。古ローマの高官が許可なくエジプトに入ってはならないという不文律に逆行するもので,テイベリウスの怒りを買うことになる。エジプトから帰りアンティオキアの任務に戻ったゲルマニクスは,そこで突然の病に倒れたのである。これはシリアの支配者でテイベリウスの旧友だったピソが毒を仕込んだせいではないかと言われている。プッサンが描いたのは家族や部下たちに固まれたゲルマニクスの臨終の場面である。フォン・マテイアソフスキーはゲルマニクスにはフランチェスコ枢機卿と通じる点があることを主旨摘している。すなわちネポテイズムにより若くして政治的地位を手に入れたこと,文芸に造詣が深くエジプトへの興味も抱いていること,外国へ派遣されたこと,そして不運に見舞われたことである(注16)。また,フランスでの交渉相手であったリシュリュー枢機卿はその抜け目のない政治力からテイベリウスの再来と呼ぶ人もあったといわれている。失意のフランチェスコは異国で陥穿につまづいた古代の有徳者に己を重ねていたのかもしれない(注17)。ハ同UハU

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