ハUフランチェスコ一行のフランス行きは政治的収穫はあまりなかったが,文化面での意義は深かったと言えるだろう。1620年代のフランスは多くの自由思想家,いわゆるリベルタンたちを育んで、いた。フランチェスコ一行はそうしたリベルタンたちとの交友を通して道徳哲学に親しむようになっていった。また,国力を増してゆくフランスで形成されつつあった美術品コレクションにも接する機会を持ち,その面でも刺激を多いに受けたことが想像される(この面に関してはマドリッド行きでも豊かな王室コレクションに触れ鑑賞眼を肥やしたことだろう)。パルペリーニ家に仕えていた博学の人カッシアーノ・ダル・ポッツォもフランチェスコに同行しており,彼自身にとっても主人以上に実多き外遊であったはずである。こうしてこのフランス行きは,カラヴアッジョを育んだ頃のローマのフレンチ・コネクションを継承する文化土壌を耕したということができる。プッサンはその後このパルペリーニ家に仕えた博識のダル・ポッツオに保護を受け,知的傾向の強いグループの一員となるのだが,彼がストイシズム的主題に深く傾倒するのは1640年頃からである。1640年夏,フランス国王からの招鴨を受けプッサンは不本意ながらローマを離れパリへ赴いたが,そこでの人間関係や不得意な分野での仕事に疲れ,1642年末にはローマに帰ってきた。その後プッサンは,画業のなかでひとつの頂点を成すともいうべき作品群,すなわち第2作目のシャントルーへの〈七秘蹟〉シリーズや一連のモニュメンタルな風景画を制作する。こうした時期にストイシズム的主題が目立ってくるのである。〈スキピオの自制〉〈コリオラヌス〉〈ユーダミダスの遺書〉など古代史上の有徳者を絵画化したり,完成作には至らなかったもののアレクサンドロス大王,ゼノピア女王,小カトーなどの構想を練った素描も残している。しかし,いかにもストイシズム的と受け取られるこうした主題よりも,もう少し早い時期に制作されたダル・ポツツオへの第l作目〈七秘蹟〉連作〔図8〕にプッサンのこの思想、への傾倒の深さを見い出すことができる。フォン・マテイアソフスキーは1636〜42年にカッシアーノ・ダル・ポッツオの主導の下にプッサンが制作したこのキリスト教主題の連作に,ストイシズム的思想が色濃く反映していることを指摘している(注18)。この連作は初期キリスト教時代の儀式に対するダル・ポッツオの知識を裏付けるものといわれているが,この時期には古代ローマ社会に浸透していたストイシズムが人々の暮らしゃ生き方を根強く律していたことも彼は知っていたと考えられる。古代学者として,ローマ帝国におけるストイシズムの重要性を意識していただろうし,初
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