鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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f皮は1650年にテベレ川で溺死するがその死は自殺と考えられていて,直接の原因は明オ1ない(注22)。プッサンの場合はたしかに前述のように1630年代後半,このパトロン期キリスト教の教父たちがストイシズムの文献を頻繁に引用していることにも気付いていたと思われるのである。特に〈終油の秘蹟〉に代表される「死に備える」姿勢はストイシズム的だと言う。プッサンにおけるストイシズムは単に主題がその分類に入るというものだけではなく,宗教主題の作品にもその影響が認められるという点で深遠だといえるだろう。また,プッサンの風景画〔図9〕についてもストイシズム的な自然解釈を彼女は指摘している。プッサンのいわゆる「構成された自然」はストイシズム的世界秩序の把握に至ったことを示すというのである。そしてここでもまた,ストイシズムはキリスト教的自然観,つまり,神意の表れとしての自然という見方につながっているという。ピエトロ・テスタはプッサンと関わりの深い画家で,1630年代にはプッサンと同様に,カッシアーノ・ダル・ポッツオの周辺グループの一員だったことが知られているoらかではないが,遠因となったであろう彼の憂欝な気質については,「生まれっきのロマンティックな傾向」と「古典主義理論のあいだ」(注19)の不一致によって増長されたという説明がされてきた。また,その古典的傾向や知的なものに己を向かわせようとしたのはダル・ポッツオのグループに適応しようとしたためであったと言わている(注20)。しかし,1630年代にはむしろ,テスタの様式はヴェネツイア派の影響を匂わせる柔らかさとノスタルジックな神話的世界の雰囲気を保っており,難解な寓意的主題やストイシズム的主題に本格的に取り組むのは1640年代になってからのことである。テスタはこうした主題の表現に主として版画を使ったが,その大きさ,構図の複雑さ,また周到な習作から見て,タブローと同程度の重要性を持つと考えられている〔図10〕(注21)。テスタは1637年にダル・ポッツオのもとを去っているので,厳格な知的・古典的要素をこのパトロンに直結させ,その抑圧のみに科を負わせるのは短絡的かもしめ知的・哲学的側面に負うところが大きかったと言えるのだが,そのプッサンにしても,ストイシズム的世界の表現を深めてゆく1640年代以降はダル・ポツツオの保護かち徐々に遠ざかっていく時期に当たっている。このようにして見ると,これらの画家がストイシズムにひかれたのは,特定のパト

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