円,山を発揮したと言ってよく,以後,政策的に展開される工芸品輸出は,この時の成功の強烈な印象に支配されることになった。最初に述べたように,ウィーン万博への参加は,政府が決定した極めて外交的,通商的意味合いの強いものであった。万博の日本パピリオンの売品がことごとく売りきれるという好評に,政府は,日本の伝統的手工芸品の市場性の高さに意を強くしたはずであるし,事実,これを契機として,1862年のロンドン万博以来欧州内部に底流していた日本の伝統的工芸品に対する継続的な需要が決定的になっている。博覧会への出品物の多くは,閉会後,随行の商人によって現地で売りさばかれ,殆どを売り尽くした。また,この折の売買の便宜のために,政府が後ろ盾となって設立した「起立工商会社Jは,経営上は短期間で破綻したものの(明治24年解散),国際貿易に従事する商社の先駆的存在となり,特に意匠面において輸出工芸品の定型を生み出す役割を果たしている。ウィーン万博の経験をとおして政府が確認した手工芸品輸出という貿易路線は,伝統的工芸品制作従事者にとっても,極めて好都合なものであった。現実に,伝統的な工芸品生産地域は,明治維新前後の経済的な混乱に全面的に巻き込まれ,例えば瀬戸の場合,明治2年,庄屋から村方窮民救済の嘆願が出されるほど困窮していたという(注4)。これは,廃藩置県によって,従来,藩が行っていた窯業保護制度が廃止となったためであるが,この混乱を引き起こした旧体制の崩壊は,逆に自由競争を促進させて新しい活力の登場を喚起し,混乱は一時的なものとして収束していったと言う。これら生産地の維新後の窮状は,旧勢力と密接な関係をもって発展していた伝統的な工芸界全般に言える傾向であり,新しい庇護者を待ち望んで、いた彼らは,明治政府によって示された,殖産興業の一翼を担う輸出工芸品生産という新たな役割に,積極的に取り組んでいったと言えるだろう。もっとも,瀬戸のような大規模な産地の場合,輸出品の製造は,一部ウィーン万博に先行して,既に幕政下で始められていた。しかし,万博の成果として,輸出が有効な販路となることが確実視されたことによって,外国向けの製品の製造に一層拍車がヵ、かっていったことは確かである。ここに,万博の成果を踏まえつつ,明治10(1877)年〜36(1903)年の聞に計5回開催された内国勧業博覧会の出品内容を見ると,当時の輸出業者や実作者たちが,いかに懸命に新しい需要に適合する努力を重ねていたかが理解できる。第l囲内国勧業
元のページ ../index.html#131