鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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博覧会(明治10年)の出品目録を概観しただけでも,瑚排具,写真狭(写真立てのことか),テーブル,コップ,編幅傘の柄,卵壷子(エッグ・スタンドのことか)など,文明開化を努需とさせる言葉が散見される。また,政府はウィーン万博を最初として明治9(1876)年のフイラデルフイア万博,明治11(1878)年,22(1889)年,33(1900)年のパリ万博,26(1893)年のシカゴ万博をはじめとする各種国際博覧会に参加,出品を重ねていくのだが,明治11年のパリ万博博覧会事務局より出された出品者心得には,「製造者の最注意すべき条件の大概jとして,工芸各分野の製品に対して,「流行に後れぬ様に注意し又は流行を始る様心掛ベしj,「殊に藍色料は董焼青を用ひて洋青を用ふべからず」(注5)等々,微に入り細にわたった十八項目の注意事項を列ねている。さらに,明治22年のパリ万博に際しては,「海外博覧会に対する本邦参同の方針」を「我国の名誉を博し将来の貿易を促すにありjと明言するに至っている(注6)。このような政府の動向を受けて,各産地ではますます輸出品製造が盛んになり,先にも例をヲ|いた瀬戸の場合,一時期は輸出を目的とした製品が全体の主流となって7割にも達したという。この傾向は,明治10年代前半にまで続き,輸出も着実にのびていくが,明治15年を境に,過当競争,生産過剰によって低迷期に入る。これは,最初は物珍しさも手伝って絶賛一色であった日本からの万博出品物への評価が,粗造品の増加,基本的な造形感覚の欠如やマンネリズムを指摘され,次第に厳しいものへと転じていったのと軌をーにしている。この頃,日用品としての出品物を除くと,多くの作品は,江戸末期に頂点を極めた精巧細搬な逸品制作に向かつており,現に伝世する出品作にも,当初から高く評価された花鳥文様を中心とした自然描写に彩られ,これでもかと言わんばかりの技巧的装飾的な傾向のものが多い。これらの,ややもすれば類型的な技術の競合に終始しがちであった作品が,「輸出工芸jの否定的な評価に繋がったことは事実であるとしても,いささか過剰なまでに研ぎ澄まされた工芸的技術の中に伝統的な技術,型が保持された面も見逃すことはできないだろう。何よりも,この時期の工芸品制作は,概して産業的レベルで受け止められており,内外の博覧会出品物に対する論評や輸出品をめぐる好況不況は,社会的な性格をもって報道されている。逆に,このことが,昭和2年の帝展工芸部の創設をもってひとつゴスコパルト-122-

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