の区切りとされる,産業色を払拭することによって工芸の社会的な地位を向上させていこうとする動きの原動力となっていくのであるが,美術,工芸などの枠組みの構築や揺らぎとは異次元のステージで,現実的なマーケティングに基づいた制作に真剣に取り組んで、いた制作者たちが存在したことは忘れることはできない。そして,そのような職人的意識のもとに創り出された作品が,広範な意味でのジヤボニスムの底辺を支えていたということも。初期輸出品は,その技巧的な質の高さとエキゾティックな意匠や造形感覚が欧米人の好奇心を誘った。そして,日本製品が一般的になるにつれて当初の新奇さのみでは購買層を確保できなくなった。より実態に即した欧米陶磁器の研究が必要となったとき,そこに,遂に,より親密な生活感覚を伴った工芸品が創り出される余地が生じたと考えることができる。明治末から大正期にかけては,日清,日露の両戦争での勝利を経,しかも維新の第一世代が次の世代に交替して,ょうやく近代の成果がより内発的なものとして意識され始めた時期である。経済も比較的安定して内需も増大し,同時に都市生活者としての新しい市民階級が登場した時期でもある。この新しく興ってきた階層は,適度に洋化した和洋折衷のライフスタイルをもち(少なくとも志向し),生活基盤においても,美意識においても,従来のお仕着せに満足しない自負をもっていた。ここに,彼らの経済的な余裕と,非伝統的なスタイルの工芸が出会うチャンスが生まれてくる。輸出工芸品の製造において海外での用途を想定して試行錯誤の末にようやく獲得されたコーヒーセットやティーセットのような新しい器形が,中流階級の生活の洋風の場面に吸収される。さらに彼らは,技術的な遺産とともに輸出工芸の閉塞的な状況に対する批判的な感覚も受け継いだもののようである。彼らは,全く新しい流通の局面に,自分たちのスタイルを形作る作品を見出そうとしていったのである。さて,ここで注目したいのが,大正初期,美術品,工芸品を取り引きする場として従来の骨董屋や道具屋とは異なる空間として誕生した美術品専門店,あるいは画廊である。ヨーロッパ留学から帰国した高村光太郎が聞いた現肝洞(明治43年4月)は,日本における画廊の最初のものとして知られているが,これに相次いで、美術品店三笠(〜123-
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