大正3年12月),田中喜作の田中屋(大正3年5月〜大正4年6月)が開廊した。また,専門店ではないにせよ,常時何がしかの作品を展示販売する店として,京都の佐々木文房具店(大正3年春),大阪の吾八,柳屋書店などが同時代的に発生している。竹久夢二の港屋絵草紙店(大正3年)なども,作家自身が自分の作品を扱う店を経営したという点で異質ではあるが,このような動きの中に数えられるものであろう。(店では夢二の作品展,月映展が開催された。)これらの店は,作家(制作者)との直接の交渉から取扱い作品を選定し,新進の作家の作品を中心に扱うなかで,新興の市民階級の営む新しい生活様式に相応しい美術品を提供し,新しいスタイルの美術工芸の奨励と趣味の提唱に力を注いだ。また,いくつかの店では,宣伝,啓蒙の手段として,店の営業案内は勿論,美術評論や最新の情報記事,取扱い作家の細々とした消息、を掲載した機関誌を刊行した(三笠の『芸美』,田中屋の『卓上』,柳屋の『美術と文芸Jなど)。このようなメディアも駆使した営業方法によって,店を中心とした美意識の磁場が形成され,そこで共感された美的価値観が彼らの新しいライフ・スタイルを彩る美の規範となっていったのである。特に,短命ではあったが審美的姿勢の強かった三笠,田中屋から,藤井達吉,富本憲吉,梅原龍三郎,岸田劉生ら,大正後期から昭和初期を代表する作家たちが育っていることは注目に値する。このような店の在り方が,当時のジャーナリズムにどのように映じたのか,「新しい美術趣味Jと題された記事を一例に挙げてみよう(注7)。骨董書画は鑑識なければ贋物を掴まされるが怖ろしく,新画は何れも之れも薄っぺらで面白くなしと頭から罵倒してもさて矢張好事心やみ難しといふ高等遊民連中の間に近来流行し始めし一種の美術工芸品あり東京の神田の現耳洞の如き高村光太郎が経営者となり洋画さては新進日本画家の半折又は其他の美術工芸品を販売なり居りしが遂に閉店のやむなきに至りしといふ,大阪にては新町に吾八といふがあり,(略)店は頗るハイカラに装飾しま良耳洞式の品々を陳列しあり嚢には津田青楓,斎藤与里,長原止水等の団扇会を聞き此聞は富本憲吉の工芸品展覧会杯を催せし事あり,とし若き美術家の作品雑然として棚に机に満ち満ちて体は鳥渡,大阪には類のなき店なり,何れも米の価を知らぬ連中が之を作り同じゃうな客が購ふといふ姿なれば価の高いこと論外にて為めに客は少数に限られて店に売残る品多き由,されど美術品鑑賞の趣味に-124-
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