えるためには,この手は上に上げなければならないが,その状態で剣の柄を持つと,剣の刃先が宇賀神像(と鳥居)の上にそびえてしまうので,バランスが崩れるからである。一方,真中の手が握れば,十分な空間があり,女神の周辺に剣が収まる。江の島神社の弁才天像は,持ち上げて,弁才天の頭上の方へ曲げられた右第一手に舗を持つ。そして同様の左第一の手に横向きで,少し女神の頭の方に上向く鉾と左右のバランスをとっている。更に,右第四(一番下)の手の先の折れた箭は,上と外側へのベクトルを持ち,鉾と同じく弁才天を中心とする円の接線の役割を担っている。即ち外の方へ向かっている各々の手と手の持ち物は弁才天の周りに後光のような円を作り,バランスと自己充足的の全体という印象を与えている。彫刻家は出来るだけ経典の記述に従っているが,バランスをとる目的によって,必要な図像的な変化をした。例えば,竹生島宝厳寺の慶長19年(1614)の蓮華会彫像〔図3〕のように,右第一の手が棒をt屋っているものもある。江の島神社の弁才天像の場合は例外だが,宇賀弁才天彫像の宇賀神が後で付け加えられたものである作例には,元来弁才天像として作られた作品かどうか疑問のある像もある。例えば,大阪にある考恩寺の入管弁才天像は十世紀頃の木彫だが,頭の上の宇賀神や脇手などは後で付け加えられたものなので,初めは弁才天像ではなかったという可能性がある。入管宇賀弁才天坐像は基本型で,莫大な遺品が保存されている。例えば,弁才天信仰が強い琵琶湖の竹生島宝厳寺には特に八皆宇賀弁才天坐像の作例が多いのである。毎年の蓮華会では,雨乞いの法会として,法華経を読請し,弁才天彫像が奉納され,崇められたのである。この奉納されてきた一群の弁才天像が残っている。室町末期から江戸時代の前半頃までは,田坂郡平方村(現在の長浜市平方町)の仏師に作られた弁才天像が多い。江戸時代の後期から明治時代には,京都寺町六角下で作られたと思われる。最古例弁才天像は永録8年(1565)である。高さは145センチで,保存されている像では最大である。残っている蓮華会の弁才天像は大きさ色々だが,みな宇賀神と鳥居を八管弁才天坐像の頭の上に頂く。持ち物は一部のみ,もしくは全部失われており,手が破損している場合も多いので,それぞれの手の持ち物の図像は復示し難い。『仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』の記述に細かく従ってはいないと限らないし,現存する弁才天彫像は同じ手に同じ物を持つてはいない。この彫像を良い状態で保存する努力はほとんどなされなかったし,保管所が変わったので,その移動の際130
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