鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
150/759

をたっぷりと用いた濃彩で,着物の模様など細部まで手を抜かない,丁寧な仕上がりである。容貌は各人各様だが,比較的大きな目に黒々とした大きな瞳を点じており,おおむね愛嬬のある表情である。また,耳が半円形に近いほど丸い形で,耳采が大きいのも特徴と言えよう。各人物の向かつて右側には京伝の簡潔で的を得た解説が付けられており,最後の夜鷹像の後にも,短い蹴が記されている。序文を以下に示す(句読点筆者)。岩佐又兵衛菱川師宣等かされ絵のたまたま今の世に残れるを見るに,一文字の編笠,白柄の大小,腰巻羽織,ーツ印龍,あるはく、り頭巾にかしらをつ、み,袴のはしたかくからけ,あるは羽織かっきて面をかくし,細き杖にすかりたるたはれ男あり。女の髪の賓なかくたれて襟をかくし,紫足袋,小太夫鹿子,吉弥むすみのたくひ,すへてめなれさるさまなり。抑此一軸を見しは十とせあまり四ツ五ツを過たる前の事にして,今の目をもて見れは風俗のかはりたる事すくなからす。わっかの年を過るさへ,かやうに物のかはれる事おほかれは,もしも、とせの後の人,此うつし絵を見は,今の目をもて岩佐菱川等か絵を見るこ、ちこそすへけれ。か、るよしなきされ絵も,時の風俗を見んにはたよりなきにしもあらさるへし。よりておもふ所をのへて,おこかましう年号をしるしおきぬ。序文の内容からは,後世のための風俗史料として本図を役立てたいという京伝の意図が読みとれ,肢にも同趣旨のことが記される。序文の年記は「文化五年戊辰夏六月Jである。文化5年(1808)と言えば,京伝は既に『近世奇跡考』を世に出し(文化元年<1804>),『骨董集』の刊行に向けて,ますます考証熱を深めていた時期であり,本図の序・肢が考証的意図を帯びるのは当然のなりゆきと言えよう。序文の解釈で問題となるのは,「此一軸を見しは十とせあまり四ツ五ツを過たる前の事にしてjというくだりである。京伝が「此一軸を見」たと証言する十四,五年前とは,寛政5'6年(1793,1794) 頃にあたり,この記述から本図に描かれる人物図は寛政年間半ば頃の風俗と考えられる。ここで京伝は本図を「見たJとは記しているが,「描いた」とは記していない。作品本体に記された文字資料には,絵師を特定する記述は一言も見あたらず,作品の記述に従うならば「筆者不明jとするのが妥当と思われる。しかし,本図が初めて紹介された『日本風俗画大成・徳川時代後期j(昭和4年<1929>刊行)以来,詳しい検証がなされないまま現在まで,本図の筆者は京伝とされている。そうした中で,いち早く藤懸静也氏,また鈴木重三氏が序文の解釈から,京伝筆を疑問視する説を提示され-140-

元のページ  ../index.html#150

このブックを見る