鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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たが,両氏の意見は受け容れられなかったと言える(注1)。では,次に寛政年間の京伝の画風と本図とを比較して,京伝筆の妥当性について検討してみたい。天明期(17811788)の京伝は,天明三年(1783)に錦絵の代表作「青楼名君自筆集」を蔦屋から刊行,同五年には黄表紙の代表作『江戸生艶気樺焼』を刊行し,絵師としても戯作者としても,まさに順風満帆の時代を送ったと言えよう。ところが,寛政年間に入るとすぐ,「寛政の改革」の余波をもろに受け,寛政元年(1789)'同3年(1791)と,二度の筆禍を被ることとなる。これ以降,京伝は版本挿絵から完全に遠ざかり,絵師・北尾政演は姿を消す。黄表紙の挿絵は寛政3年まで手がけているものの,「政演」の署名が確認できるのは寛政2年(1790)までであり,翌3年には「菊亭主人Jや「京伝門人亀毛J「自画」などと署名していることから,本小論では,寛政3年を「京伝Jとしての画業のはじまりと考えたい。京伝は寛政3年以降,基本的に版画を手がけることはなかったので,作品数自体は極めて少ないが,それで、も寛政年間に制作された何点かの版本挿絵や一枚摺が確認できる。これらの作例から以下のような特徴が指摘できる。まず,人物表現について,寛政3年頃までは,あごがたっぷりとした大きな顔に,鼻孔の目立つ大きな鼻という,天明後半から寛政初頭にかけての容貌の特徴を引き継いでいたものが,寛政5年あたりから,それまでの画風をベースにしつつも,歌麿風を加味したような卵形の輪郭に,やや小ぶりの鼻というおとなしい顔つきに変化している。この容貌は,短足気味で愛らしい,五頭身ほどの体型と合わせて,師・重政のこの期の画風によく通ずるものである。政演期の短所であった人体のデッサンのくずれはかなり改善されているが,それでもところどころに見受けられる。激減した版画に対し,寛政以降の作画の中心となったのは肉筆画である。しかし,その大半には年記がないため,落款の書体を分類,制作年代をしぼる作業を行った(注大半が紙本淡彩の即興的な作品であるにもかかわらず,筆数を惜しまず対象を謹直に写すという特徴が見られる。その筆致は直線的で,筆の運びが速く,息の短い,ポキポキとしたものでありにじみやかすれといった墨調を生かすような水墨画的な技法はほとんど用いていない。人物表現の特徴は概ね版本挿絵のそれと同じである。また3 京伝画との比較2 )。その結果,寛政中頃から後期にかけて制作されたと考えられる作品を見てみると,-141-

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