鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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て黄表紙でコンビを組むのは寛政6年刊行の『百人一首戯講釈Jにおいてである。豊国は戯作者・芝全交とコンビを組むことが多かったが,寛政5年,全交が亡くなり,生前全交と親しかった京伝が遺稿の校合を引き受けたのである。この作品において二人が知己の間柄になったことは確実であろう。また,寛政5年以前にも,京伝の弟子格にあたる曲亭馬琴ゃなんらかの支援関係にあったと考えられている竹塚東子の黄表紙に豊田は挿絵を描いている。棚橋正博氏は,寛政3年の馬琴の処女作が和泉屋から出版されていることに注目し,京伝が和泉屋に仲介した可能性を示唆しておられる(注5)。板元和泉屋を通して二人が知り合いであった可能性もあろう。したがって,寛政5' 6年頃,豊田が描いた作品を,京伝が語るように「見るJ機会は十分あったと思われる。本図の筆者を豊田と比定したことで,あらたな疑問が浮上したと思われる。すなわち,本図の企画に京伝はどれほど関わっていたのか,という問題である。京伝と豊田の結びつきは寛政年間の段階ではそれほど親密なものとは言えず,京伝が参画した画巻の制作を豊田が手がけるという可能性は低いように思われる。仮に,京伝が序文で語るように,本図を「見たjだけであるなら,本図制作主体は豊国のほうにあったと言うことになろう。現段階では京伝と豊田の関係を含めて,制作の経緯やその背後にある文化事象について明らかにし得ない。しかし,その鍵になると思われる本図の表現上の特徴について,最後に述べておきたい。本図は典型的な人物像を見事に表現していることでつとに評価が高い。中でも特筆に値するのは女性の描き分けである。本図は町人の妻をはじめとして夜鷹まで,十六人の様々な階層の女性を描くが,賎妓や夜鷹,また老婆など,容貌が著しく特徴的なものはもちろん,典型的な美人表現の枠に当てはまる女性に関しても,衣類や髪形はもちろん,その表情や仕草などで巧みに描き分けている。例えば,同じ岡場所の遊女でも品川の遊女はゆったりとした弧を描く下がり眉に,おちょぼ口で,顎の丸い穏やかな表情であるのに対し,深川の遊女はきりりとした濃い上がり眉で目尻もきゅっとつっており,下唇をつきだした気の強そうな表情,というふうに,それぞれの土地の気質を反映させて,表情をうまく描き分けている。また,吉原の花魁と娘はほとんど同じ顔の造作だが,花魁が顔をしっかりと上げ,目線を左前に向けて送る,堂々とした様子であるのに対し,娘は顔をうつむ5 「江戸風俗図巻Jの女性の表現-144-

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