(1)藤懸静也「山東京伝序寛政江戸風俗画巻」『国華j674号,1948年。鈴木重三「京(2)京伝の寛政以降の画風変遷について詳しくは拙稿「山東京伝の肉筆画について一寛政以降の作品を中心に」(『フィロカリアJ第16号1999年)を参照いただき(3) ただし,本図と豊春美人画との酷似については大久保純一氏にもご指摘を受け,き加減にし,目線も下げて,全体として恥じらっている雰囲気をかもし出している。こうした本図の女性の描き分けに関連して注目されるのが喜多川歌麿の美人大首絵である。歌麿は寛政4,5年(1792,93)頃の「婦人相学十排」で様々な年齢,立場の女性を題材にとり,その性質を顔の表情や仕草によって意欲的に描き分けようとしている。同じ頃の「当時三美人」では,歌麿美人画の枠内ではあるが,実在の美人である富本豊雛,高島おひさ,難波屋おきたの個性を微妙に描き分けている。性格や個性の描き分けは大首絵という手法と不可分では考えられないが,顔の造作の特徴や微妙な表情によって,典型的な美人の枠内でも個性を描き分けることが可能で、あるという発想が,寛政前半期に歌麿によって提示されたのは重要で、ある。歌麿以前の美人画において,身分や立場,性質や個性による女性の表情の描き分けがなされていなかったことを考えてみても,本図の描写は歌麿の美人大首絵に多大な影響を受けていると思われる。加えて,寛政年間の中頃において,歌麿の美人大首絵や本図ほどに女性の描き分けに意をはらった作品は管見の範囲では見当たらず,本図は歌麿以外の手になる美人表現としては希有なものと言えよう。ただし,歌麿が「婦人相学十体」から「歌撰恋之部j,さらに「北国五色墨jへと,典型人物を題材にとりつつ,女性の奥深い心理の描出に傾倒していくのに対して,本図はそれほど深部まで踏み込んでいかず,あくまで階層や立場に根ざした表層的な「気質」に視線が向けられているようである。以上のような歌麿の表現との相違点については,現段階では考察が未整理のため,印象批評の域を出ない恨みがある。しかし,この描写態度は絵師ーすなわち豊田ーの特質とも,また本図の趣向とも密接な関わりがあると思われるため,今後も考察を進め,豊田の画業における位置づけ,及ぴ本図制作の経緯を見極めていきたいと思う。I主伝と絵画」『近世文芸j13号,1967年(『絵本と浮世絵』〈美術出版社,1979年〉所収)。たい。-145-
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